2014年連続講座「だれもがいきいきと生きられる社会のために」第2回


▼講座内容の振り返り

【「まだ結婚しないの?」「男のくせに根性ない」もセクハラです~セクシュアル・ハラスメントを学ぼう~】と題し行われた今回の講座では、講師に徳永恭子さん(大妻女子大学研究員、元東京都小学校教員)をお招きし、言葉にみられるジェンダーや差別性からセクシュアル・ハラスメントの定義に至るまで、自身の小学校教員時代の経験談もはさみながらわかりやすく丁寧にお話していただきました。

まず冒頭では、小学校の授業で必ず登場する「四季の歌」を例としてとりあげ、歌詞のなかに多く登場する「僕」や「岩を砕く波のような僕の父親」に代表されるような、男女を分ける単語、性別によって作られたイメージを当てはめる表現などが指摘されました。このように言葉がつくりだす「男らしさ・女らしさ」は、歴史的にイデオロギー(社会のなかで有力とされる価値観や認識)としてつくられてきたということが述べられました。

また、こうした言葉こそが差別という人間の心理状態を発生させるということも同時に指摘されました。「女子だから行儀よくしてね」「強い!男の子だから泣かないの」「男のくせに甲斐性がない」「女のくせに料理が下手」などなど、日常にあふれているさまざまな表現に隠れた差別的言葉(その根拠とされているのはいずれも性別役割分業や男女特性論)がたくさん挙げられました。

表現に限らず、漢字や単語に「女」や「母」といった文字が多くみられること。「母校」という言葉もなぜ「出身校」とう言葉に置き換えないのかなど、ご自身の教員時代の実践経験についても説明していただきました。

そして、女性への暴力や女性の権利をめぐる国際的な動向について指摘しながら、セクシュアル・ハラスメントの定義について提示されました。

セクシュアル・ハラスメントは、暴力を伴うレイプから女性へのお茶くみ強制に至るまで多種多様である。そしてその判断のポイントは「相手の意に反する性的行動」であり、基準は「自分」ではなく「相手」である。というとても重要な指摘がなされました。

後半は、ワークシートを使用しながらセク・ハラの現場に居合わせたら自分はどのように行動するかを具体的に考えたり、セク・ハラの場面や関係性によってどんなかたちであらわれるのか、被害にあった人へかけた理解なき言葉や態度がセク・ハラの二次被害を引き起こす、などを学びました。

セクシュアル・ハラスメントは、パワー・ハラスメント(力による嫌がらせ)に性的な要素が付加されたものであり、セク・ハラが横行する現場にはパワ・ハラもはびこっていると指摘されました。

まとめと質疑応答では、日常の何気ない言葉に気を配ることの重要性、そしてそれをひとつずつ指摘し改善していく実践のノウハウを共有していくことが特に強調されました。

今回の講義を聞きながら、無意識に差別的な言葉をつかっても悪気がないから・知らなかったから仕方ないと開き直るのは、ハラスメントの基準を「相手」ではなく「自分」において判断する、非常に危険な考え方であると思いました。在日朝鮮人が民族差別を告発しながら運動をしていても、つねにほかの誰かを・仲間を差別していないか、傷つけていないか、ひとりひとりが自身の言動や態度を振り返ることが大切であると痛感しました。

今回は日本語(講義では国語という表現がされていて、正直少し違和感を感じましたが)に関する言葉の性差別的表現が主に話されました。

ですが、在日朝鮮人社会のなかでつかわれる朝鮮語にも「オモニ・チョグッ(母なる祖国)」など同じ問題を持った言葉や表現がたくさんあることも懇親会の場で話されました。だれもがいきいきと生きられる在日朝鮮人社会をつくっていくために、こうした問題から目をそらさず深く考え今後の実践につなげていくことが必要なのではないでしょうか。

☆:…:☆寄せられた感想から☆:…:☆

▼「セクハラは相手の意に反する性的な言動」…セクハラをされた側がいかに思うかが重要視される、セクハラは「パワハラに性的な要素が付加」されたということに新たな気付きがありました。
無意識によって傷つく人がいるということを常に考えながらこれからも勉強していきたいと思う。

▼セクシャル・ハラスメントの定義についての話の中で基準は自分ではなく相手だということにすごくはっとさせられました。今までセクハラについてどう理解すればいいのだろう、何が正しくて何が間違っているのだろうと考えていた部分があったのですが、その原因が「自分基準」にあるのではないかと思いました。

セクハラって女性の体にふれて女性が嫌がることだと思っていましたが今日の講義を受けて自身の考えがもう古い、狭いと痛感しました。
差別語など無意識のうちに自身の中にまた差別があると思い反省します。

▼今まで自分がジェンダー、セクハラについてあまりに無関心なんだということが分かりました今日の講義を聞いてみて自分はセクハラの加害者でもあり被害者の両者なんだと思いました。
こういう事実がこの社会に充実してないことが問題と思います。日常的にセクハラが起こっている社会に対してもっと問題意識を持って行きたいと思いました。

▼「ことばは言語イデオロギーとして歴史的につくられた」という内容が興味深かった。現代もどんどん言葉が変化していく中で、新たな言語イデオロギーは日々生まれ続けていると思う。「北朝鮮・朝鮮」という言葉のように、その言葉を目にするだけで一定のイメージを抱かせるようなものが少なくない。
言葉はとても大事なもの。日常で何気なく発してしまう言葉に差別を助長するものがあるかもしれない。そういう自覚を持たなければいけないと感じた。

 

*2014年連続講座の内容及び「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果については、下記書籍にてすべてお読みいただけます*

だれもがいきいきと生きられる社会のために 性差別撤廃部会連続講座の記録&「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果報告書

 


 

▼こうざないようのふりかえり

 

【「まだけっこんしないの?」「おとこのくせにこんじょうない」もせくはらです~せくしゅあるはらすめんとをまなぼう~】とだいしおこなわれたこんかいのこうざでは、こうしにとくながきょうこさん(おおつまじょしだいがくけんきゅういん、もととうきょうとしょうがっこうきょういん)をおまねきし、ことばにみられるじぇんだーやさべつせいからせくしゅある・はらすめんとのていぎにいたるまで、じしんのしょうがっこうきょういんじだいのけいけんだんもはさみながらわかりやすくていねいにおはなししていただきました。

 

まずぼうとうでは、しょうがっこうのじゅぎょうでかならずとうじょうする「しきのうた」をれいとしてとりあげ、かしのなかにおおくとうじょうする「ぼく」や「いわをくだくなみのようなぼくのちちおや」にだいひょうされるような、だんじょをわけるたんご、せいべつによってつくられたいめーじをあてはめるひょうげんなどがしてきされました。このようにことばがつくりだす「おとこらしさ・おんならしさ」は、れきしてきにいでおろぎー(しゃかいのなかでゆうりょくとされるかちかんやにんしき)としてつくられてきたということがのべられました。

 

また、こうしたことばこそがさべつというにんげんのしんりじょうたいをはっせいさせるということもどうじにしてきされました。「じょしだからぎょうぎよくしてね」「つよい!おとこのこだからなかないの」「おとこのくせにかいしょうがない」「おんなのくせにりょうりがへた」などなど、にちじょうにあふれているさまざまなひょうげんにかくれたさべつてきことば(そのこんきょとされているのはいずれもせいべつやくわりぶんぎょうやだんじょとくせいろん)がたくさんあげられました。

 

ひょうげんにかぎらず、かんじやたんごに「おんな」や「はは」といったもじがおおくみられること。「ぼこう」ということばもなぜ「しゅっしんこう」とうことばにおきかえないのかなど、ごじしんのきょういんじだいのじっせんけいけんについてもせつめいしていただきました。

 

そして、じょせいへのぼうりょくやじょせいのけんりをめぐるこくさいてきなどうこうについてしてきしながら、せくしゅあるはらすめんとのていぎについてていじされました。

 

せくしゅあるはらすめんとは、ぼうりょくをともなうれいぷからじょせいへのおちゃくみきょうせいにいたるまでたしゅたようである。そしてそのはんだんのぽいんとは「あいてのいにはんするせいてきこうどう」であり、きじゅんは「じぶん」ではなく「あいて」である。というとてもじゅうようなしてきがなされました。

 

こうはんは、わーくしーとをしようしながらせく・はらのげんばにいあわせたらじぶんはどのようにこうどうするかをぐたいてきにかんがえたり、せく・はらのばめんやかんけいせいによってどんなかたちであらわれるのか、ひがいにあったひとへかけたりかいなきことばやたいどがせく・はらのにじひがいをひきおこす、などをまなびました。

 

せくしゅあるはらすめんとは、ぱわー・はらすめんと(ちからによるいやがらせ)にせいてきなようそがふかされたものであり、せく・はらがおうこうするげんばにはぱわ・はらもはびこっているとしてきされました。

 

まとめとしつぎおうとうでは、にちじょうのなにげないことばにきをくばることのじゅうようせい、そしてそれをひとつずつ してきしかいぜんしていくじっせんの のうはうをきょうゆうしていくことがとくにきょうちょうされました。

 

こんかいのこうぎをききながら、むいしきにさべつてきなことばをつかってもわるぎがないから・しらなかったからしかたないとひらきなおるのは、はらすめんとのきじゅんを「あいて」ではなく「じぶん」においてはんだんする、ひじょうにきけんなかんがえかたであるとおもいました。ざいにちちょうせんじんがみんぞくさべつをこくはつしながらうんどうをしていても、つねにほかのだれかを・なかまをさべつしていないか、きずつけていないか、ひとりひとりがじしんのげんどうやたいどをふりかえることがたいせつであるとつうかんしました。

 

こんかいはにほんご(こうぎではこくごというひょうげんがされていて、しょうじきすくなしいわかんをかんじましたが)にかんすることばのせいさべつてきひょうげんがおもにはなされました。

 

ですが、ざいにちちょうせんじんしゃかいのなかでつかわれるちょうせんごにも「おもに・ちょぐっ(ははなるそこく)」などおなじもんだいをもったことばやひょうげんがたくさんあることもこんしんかいのばではなされました。だれもがいきいきといきられるざいにちちょうせんじんしゃかいをつくっていくために、こうしたもんだいからめをそらさず ふかくかんがえこんごのじっせんにつなげていくことが ひつようなのではないでしょうか。

 

☆:…:☆よせられたかんそうから☆:…:☆

 

▼「せくはらはあいてのいにはんするせいてきなげんどう」…せくはらをされたがわがいかにおもうかがじゅうようしされる、せくはらは「ぱわはらにせいてきなようそがふか」されたということにあらたなきづきがありました。むいしきによってきずつくひとがいるということをつねにかんがえながらこれからもべんきょうしていきたいとおもう。

 

▼せくしゃる・はらすめんとのていぎについてのはなしのなかで きじゅんはじぶんではなくあいてだということにすごくはっとさせられました。いままでせくはらについてどうりかいすればいいのだろう、なにがただしくてなにがまちがっているのだろうとかんがえていたぶぶんがあったのですが、そのげんいんが「じぶんきじゅん」にあるのではないかとおもいました。

 

▼せくはらってじょせいのからだにふれてじょせいがいやがることだとおもっていましたがきょうのこうぎをうけてじしんのかんがえがもうふるい、せまいとつうかんしました。さべつごなどむいしきのうちにじしんのなかにまたさべつがあるとおもいはんせいします。

 

▼いままでじぶんがじぇんだー、せくはらについてあまりにむかんしんなんだということがわかりました。きょうのこうぎをきいてみてじぶんはせくはらのかがいしゃでもありひがいしゃのりょうしゃなんだとおもいました。
こういうじじつがこのしゃかいにじゅうじつしてないことがもんだいとおもいます。にちじょうてきにせくはらがおこっているしゃかいにたいしてもっともんだいいしきをもっていきたいとおもいました。

 

▼「ことばはげんごいでおろぎーとしてれきしてきにつくられた」というないようがきょうみぶかかった。げんだいもどんどんことばがへんかしていくなかで、あらたなげんごいでおろぎーはひびうまれつづけているとおもう。「きたちょうせん・ちょうせん」ということばのように、そのことばをめにするだけで いっていのいめーじをいだかせるようなものがすくなくない。ことばはとてもだいじなもの。にちじょうでなにげなく はっしてしまうことばに さべつをじょちょうするものがあるかもしれない。そういうじかくをもたなければいけないとかんじた。

 

*2014ねんれんぞくこうざのないよう および「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかについては、かきしょせきにてすべておよみいただけます

 

*『だれもがいきいきといきられるしゃかいのために せいさべつてっぱいぶかいれんぞくこうざのきろく&「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかほうこくしょ』