2014年連続講座「だれもがいきいきと生きられる社会のために」第3回


▼講座内容の振り返り

△はじめに(自己紹介)

イダさんは、自殺防止の電話相談や個別相談、労働者のための交渉などを行う傍ら、ジェンダー問題、特にデートDVについての講演を、年間80回前後行われています。
80年代からは、「結婚して男が女を養う」のが当然とされる社会的枠組みや、性の多様性が無視されることについて強い問題意識を持って活動してこられました。特に家庭問題やセクハラ、パワハラ、セクシャルマイノリティへの差別、DVなど、身近な問題に重点をおいて取り組んでこられました。

1 ジェンダー秩序から導かれる現状…カップル単位社会

ここでは、男と女が結婚するのが普通であり幸せである。そうでないものは欠落していて不幸、孤独であるという「固定化されたジェンダー」について問題視する必要があるというお話でした。
社会で主流となっている価値観や「偏差値」(=容姿、学歴、年収、正社員か否か、etc.)に基づいた主流秩序及びジェンダー秩序(=男/女らしい、美人/かっこいい、正社員か否か、結婚しているか、子供がいるか、etc.)が存在し、その秩序によって私たちは勝ち組・負け組、モテる・モテない、上・下という風に分けられます。

また、北欧のシングル単位社会(個人を社会の基本単位とする発想)との比較を用いながら、日本はカップル単位社会(カップルを社会の基本単位とする発想)であるということが指摘されました。
男性が働き、女性が育児や家事をするといったジェンダー規範のもとに成り立つ日本社会では、社会制度も意識も職場(労働の在り方)もカップル単位です。カップル単位社会では、過剰競争の中で主流秩序から外れた者が不利になり、また、女性の低賃金や性差別、不平等、性別役割分業の事実上の強制、少子化、DVなどの問題が深刻です。
ここでは特に、働きすぎ防止や保育の保障など、働く女性への支援が不足していることが大きな原因となっています。また、男性も女性同様に育児休暇などを多く利用することによって、労働における女性への差別は減るのではないかという指摘もありました。(シングル単位の思考)

2 「性の多様性」から導かれる結論

ここでは、男女二分法をこえ、100人100様の性があるということを認め合う。そしてシングル単位に目を向けていくということが提起されました。(多様性の保障)
「シングル単位」というのは、2人はひとつと見ず、相手を自分のものと思わず、境界線を尊重し、適度な距離をとることを維持しようとするものです。

「ひとり=恋人がいない状態」というと、多くの人は反射的に「孤独、サビシイ、ダメ、一人ぼっち、孤立」というイメージで否定的に捉えてしまいます。しかし、“ひとり”ということにも積極的な意味があります。それは必ずしも、「孤独で人付き合いがなく、生活に張り合いがない」ということを意味しません。親しい人(親や子供や友人)やペットなどに、愛を注ぐこともできるし、愛を注がれる場合もあります。
カップルというカタチがあるから必ず幸せというわけでもなければ、独り者、一人暮らしだから必ず不幸せということでもありません。カタチだけで決まるほど、人生というものは底の浅いものではありません。

講座は最後に、DVについて関心を持って学ぶことが重要というイダさんの言葉で締めくくられました。

☆:…:☆寄せられた感想から☆:…:☆

ジェンダー論に関してあまり興味がなく知る機会として今日参加しました。
話を聴きながら自分が当たり前に行っていたことがセクハラになり、相手に被害を加えているということを感じました。
男女平等が当然と思っていましたが自分自身が平等な行動をしていなかったことに恥ずかしさを感じました。
最後のDV論は大変ためになりました。

▼今まで悩んでいたことがスーッととけるような感じがしました。自分自身が秩序にどれだけとらわれていたのかを身にしみ感じました。
教育現場に立つものとしてふみこんだ教育をしていかなければならないと思いました!「シングル単位」で考え、自立心を育てる教育をしていかなければ、と責任感が生まれました。

▼おかしいと思っていても、具体的にどうおかしいのか分からなかったことについて、わかりやすい説明があってありがたかったです。
特にDVについてどうなればよいのか話されているのを聞いて、先生の考え方は、みんなにやさしくて、聞いていて幸せなキモチになれるステキな理論だと感じました。本当に胸をうたれる講演でした。
主流秩序に加担しないように、色んなことについて考え直そうと強く思います。

▼特に恋愛論、結婚論で共感する部分が多かったです。
私の大学でも誰でもかれでも引っつけばいい、という感じが成り立っているので今の若い世代こそ今日のイダヒロユキ先生の講義を聴くべきだと思いました。
誰かといなければいけないという意識が強く個人を尊重する社会を作らなければいけないと思いました。

▼上から社会制度・政策をえらそうに語るのではなく、一人ひとりの相談から考え、個人個人から変えていくといった先生の姿勢にはすごく共感しました。

話を聞いてるうちにこの今の日本社会では男女は必ず2人にならないといけないという固定観念を持っていると改めて思いました。
一番心に残っている部分は「恋人以外の人にも優しい人」というフレーズでした。こんな人たちがたくさんいたらDVで困る人達は減ると思いました。そうすると変なカップル単位な社会から抜け出せるのではないのかなと思いました。

 

*2014年連続講座の内容及び「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果については、下記書籍にてすべてお読みいただけます*

だれもがいきいきと生きられる社会のために 性差別撤廃部会連続講座の記録&「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果報告書

 


 

▼こうざないようのふりかえり

△はじめに(じこしょうかい)

いださんは、じさつぼうしのでんわそうだんやこべつそうだん、ろうどうしゃのためのこうしょうなどをおこなうかたわら、じぇんだーもんだい、とくにでーとDVについてのこうえんを、ねんかん80かいぜんごおこなわれています。。
80ねんだいからは、「けっこんしておとこがおんなをやしなう」のがとうぜんとされるしゃかいてきわくぐみや、せいのたようせいがむしされることについて つよいもんだいいしきをもってかつどうしてこられました。とくにかていもんだいやせくはら、ぱわはら、せくしゃるまいのりてぃへのさべつ、DVなど、みぢかなもんだいに じゅうてんをおいてとりくんでこられました。

1 じぇんだーちつじょからみちびかれるげんじょう…かっぷるたんいしゃかい

ここでは、おとことおんながけっこんするのがふつうであり しあわせである。そうでないものはけつらくしていてふこう、こどくであるというおはなしでした。。。
しゃかいでしゅりゅうとなっているかちかんや「へんさち」(=ようし、がくれき、ねんしゅう、せいしゃいんかいなか、etc.)にもとづいたしゅりゅうちつじょおよびじぇんだーちつじょ(=おとこ/おんならしい、びじん/かっこいい、せいしゃいんかいやか、けっこんしているか、こどもがいるか、etc.)がそんざいし、そのちつじょによってわたしたちはかちぐみ・まけぐみ、もてる・もてない、うえ・したというかぜにわけられます。

また、ほくおうのしんぐるたんいしゃかい(こじんをしゃかいのきほんたんいとするはっそう)とのひかくをもちいながら、にほんはかっぷるたんいしゃかい(かっぷるをしゃかいのきほんたんいとするはっそう)であるということがしてきされました。

だんせいがはたらき、じょせいがいくじやかじをするといったじぇんだーきはんのもとになりたつにほんしゃかいでは、しゃかいせいどもいしきもしょくば(ろうどうのありかた)もかっぷるたんいです。かっぷるたんいしゃかいでは、かじょうきょうそうのなかでしゅりゅうちつじょからはずれたものがふりになり、また、じょせいのていちんぎんやせいさべつ、ふびょうどう、せいべつやくわりぶんぎょうのじじつじょうのきょうせい、しょうしか、DVなどのもんだいがしんこくです。
ここではとくに、はたらきすぎぼうしやほいくのほしょうなど、はたらくじょせいへのしえんがふそくしていることがおおきなげんいんとなっています。また、だんせいもじょせいどうようにいくじきゅうかなどをおおくりようすることによって、ろうどうにおけるじょせいへのさべつはへるのではないかというしてきもありました。(しんぐるたんいのしこう)

2 「せいのたようせい」からみちびかれるけつろん

ここでは、だんじょにぶんほうをこえ、ひゃくにんひょくようのせいがあるということをみとめあう。そしてしんぐるたんいにめをむけていくということがていきされました。(たようせいのほしょう)「しんぐるたんい」というのは、ににんはひとつとみず、あいてをじぶんのものとおもわず、きょうかいせんをそんちょうし、てきどなきょりをとることをいじしようとするものです。

「ひとり=こいびとがいないじょうたい」というと、おおくのひとははんしゃてきに「こどく、さびしい、だめ、ひとりぼっち、こりつ」といういめーじでひていてきにとらえてしまいます。しかし、“ひとり”ということにもせっきょくてきないみがあります。それはかならずしも、「こどくでひとづきあいがなく、せいかつにはりあいがない」ということをいみしません。したしいひと(おややこどもやゆうじん)やぺっとなどに、あいをそそぐこともできるし、あいをそそがれるばあいもあります。
かっぷるというかたちがあるからかならずしあわせというわけでもなければ、ひとりもの、ひとりぐらしだからかならずふしあわせということでもありません。かたちだけできまるほど、じんせいというものはそこのあさいものではありません。こうざはさいごに、DVについてかんしんをもってまなぶことがじゅうようといういださんのことばでしめくくられました。

☆:…:☆よせられたかんそうから☆:…:☆

▼じぇんだーろんにかんしてあまりきょうみがなくしるきかいとしてきょうさんかしました。はなしをききながらじぶんがあたりまえにいっていたことがせくはらになり、あいてにひがいをくわえているということをかんじました。だんじょびょうどうがとうぜんとおもっていましたが じぶんじしんがびょうどうなこうどうをしていなかったことにはずかしさをかんじました。さいごのDVろんはたいへんためになりました。

▼いままでなやんでいたことがすーっととけるようなかんじがしました。じぶんじしんがちつじょにどれだけとらわれていたのかをみにしみかんじました。きょういくげんばにたつものとしてふみこんだきょういくをしていかなければならないとおもいました!「しんぐるたんい」でかんがえ、じりつしんをそだてるきょういくをしていかなければ、とせきにんかんがうまれました。

▼おかしいとおもっていても、ぐたいてきにどうおかしいのかわからなかったことについて、わかりやすいせつめいがあってありがたかったです。とくにDVについてどうなればよいのかはなされているのをきいて、せんせいのかんがえかたは、みんなにやさしくて、きいていてしあわせなきもちになれるすてきなりろんだとかんじました。ほんとうにむねをうたれるこうえんでした。しゅりゅうちつじょにかたんしないように、いろんなことについてかんがえなおそうとつよくおもいます。

▼とくにれんあいろん、けっこんろんできょうかんするぶぶんがおおかったです。わたしのだいがくでもだれでもかれでもひっつけばいい、というかんじがなりたっているので いまのわかいせだいこそきょうのいだひろゆきせんせいのこうぎをきくべきだとおもいました。だれかといなければいけないといういしきがつよくこじんをそんちょうするしゃかいをつくらなければいけないとおもいました。

▼うえからしゃかいせいど・せいさくをえらそうにかたるのではなく、ひとりひとりのそうだんからかんがえ、こじんこじんからかえていくといったせんせいのしせいにはすごくきょうかんしました。

▼はなしをきいてるうちにこのいまのにほんしゃかいではだんじょはかならずふたりにならないといけないというこていかんねんをもっているとあらためておもいました。いちばんこころにのこっているぶぶんは「こいびといがいのひとにもやさしいひと」というふれーずでした。こんなひとたちがたくさんいたらDVでこまるひとたちはへるとおもいました。そうするとへんなかっぷるたんいな しゃかいからぬけだせるのではないのかなとおもいました。

*2014ねんれんぞくこうざのないようおよび「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかについては、かきしょせきにてすべておよみいただけます

*『だれもがいきいきといきられるしゃかいのために せいさべつてっぱいぶかいれんぞくこうざのきろく&「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかほうこくしょ』