【エッセイ・私たちの声】他者に共感する感性を持つ


 先日、結婚したばかりの友人と食事をしていた時のこと。新婚生活についてあれこれ聞いているうちに夫婦別姓の話になった。2015年末に判決が出た夫婦別姓訴訟について言及しながら、その友人は「夫婦別姓を求めるのはいいけど、姓が変わることで尊厳を傷つけられたといって泣くのは理解ができない」と言った。

 私はそもそも、夫婦別姓を認めることで夫婦同姓を望む人たちに迷惑がかかるわけでもないのに、と思うのだが、友人に言わせればそれは「日本の伝統に基づいた制度」なのだそうだ。「夫婦別姓の朝鮮の文化とは違うから、朝鮮学校に通ったイスルには分からないんだと思う。イスルも日本の伝統を理解するためにもう少し努力した方がいいよ」とも言われた。

 一般の日本人が姓を持つようになってたかだか百数十年にしかならないが、これを朝鮮人の私には理解できない「伝統」と解するのは妥当なのだろうか? そもそも夫婦別姓訴訟の当事者たちは、友人と同じ日本人ではないか。

 結局この議論は交差点を見つけられずに終わってしまった。世間(友人)を納得させるだけの論理を会得するために私がもっと努力すべきだ、というのが一応の結論である。確かに私は物事を論理立てて考えたり話したりするのが苦手で克服する必要があると思っているが、果たして論理が絶対かどうかは疑問だ。誰かに何かを説明する上で理屈が大事なことは分かる。相手が自分と違う考えを持っている場合はなおさらだ。しかし、それはあくまで手段であって、論理がなければ理解できない・しないというのはいかがなものだろう。暴力的ですらあると個人的には思う。

 「尊厳を傷つけられたといって泣くのは理解ができない」という冒頭の発言。議論のはじめの方から自分の気持ちを思い起こし整理してみると、友人に対する怒りと失望はただただこの言葉に向かっていたようだ。自分がかのじょらと同じ立場になることを想像してみないのだろうか。なぜ考えの違いを違いのまま認められないのだろうか。多数派の側にいながら「こちらが分かるように説明しろ」とはなんという物言いなのだ。

 この話でなくとも、ジェンダーという言葉そのものやこれに関する話はこと噛みつかれがちだと思う。難しい話であることに間違いはないし(特に在日朝鮮人運動の場では)私自身が不勉強で、答えのないことだらけだ。だからこそ私は、こちら側・あちら側と壁をつくらず、自分の立場を意識して、他人の声に耳を傾け共感し、結論を急くことなくぐるぐると考え続け、良いと思うものを大事にし、おかしいと思うことに声をあげたいと思う。

 なんだか理想論のようで自分で書いていて少しむず痒いけれども、結局私が運動をする動機はそこにしかない。まず他者に共感する感性を持つこと。自分の欠点を克服しつつも、この命題はいつも胸にとどめておきたいと思う。(李イスル 法律事務所事務員)

●月刊イオ2016年9月号に掲載

【イラストに込めた意味】拒みさえしなければ、他者の涙は花となってあなたの元に降り注ぐ。

illustration_宋明樺