シンポジウム「日本軍『慰安婦』問題と朝鮮半島の分断~不可視化された被害者を見つめて~」報告


▼内容の振り返り

 4月23日、本部会初となる公開シンポジウム「日本軍『慰安婦』問題と朝鮮半島の分断~不可視化された被害者を見つめて~」を行いました。参加者は150名、うち在日同胞が約90名で6割を占めました。ジェンダー別では女性が約100名、男性が約50名でした。世代別では10~30代が約80名で過半数を占め、在日同胞学生参加者は約50名で参加者の3分の1を占めました。

 

 開会にあたって、本部会責任者の李全美さんから本部会のこれまでの活動内容が紹介されました。2002年から在日朝鮮人女性を中心とした学習会を行いながら、2013年からは公開で連続講座を開催し、2014年には「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート調査」を実施し報告書を発刊、2015年から、日本軍性奴隷制サバイバー裵奉奇さんの証言が『朝鮮新報』に掲載された日(1977.4.23)を記念して、4月23日に日本軍「慰安婦」問題について考えるための「4.23アクション」を行ってきたことなどが話されました。

 

 シンポジウムではまず、李杏理さん(一橋大学大学院博士過程)が「韓日の談合と『慰安婦』問題の現在」について報告。2014年以降の12回にわたる韓日外務局長協議や、李丙琪大統領秘書室長(元国家情報院長)と谷内正太郎国家安全保障局長による「慰安婦」問題についての協議、韓日首脳会談などを経て2015年12月28日に韓日「合意」が発表され、直ちにケリー米国防長官が「歓迎する」との声明を発表したこと、また「合意」以降、韓国国防省と在韓米軍による高高度防衛ミサイル(THAAD)の配備や、韓日間の「秘密軍事情報保護協定」署名・発効、韓米日三国外相会談における日本による釜山「少女像」移転の要請や、朝鮮民主主義人民共和国と核の「脅威」への対応が協議されたことなどの経緯が丁寧に報告され、日本軍性奴隷問題についての韓日「合意」は「韓米日軍事同盟の強化をはかるための道具にされた」と強調されました。

 

 李杏理さんはまた、日本軍「慰安婦」問題について「普遍的な人権問題」あるいは「女性に対する暴力の問題」であるという側面のみを強調するとき、朝鮮民主主義人民共和国とそこにいる被害者の存在に対する思考のしきいを設けてしまっているのではないかという問題提起をされながら、韓米日による軍事同盟強化という目的のなかに「合意」があり、日本による朝鮮半島の南側との和解は北側に対する敵対とセットであること、韓米日の軍事同盟の強化によって朝鮮民主主義人民共和国における次なる戦争と性暴力の再演がなされるのではないかという危機感を表明されました。

 

 続いて、金優綺さん(在日本朝鮮人人権協会事務局員)が「朝鮮民主主義人民共和国の被害者と『合意』への反応」について報告。朝鮮民主主義人民共和国における日本軍性奴隷制サバイバーの被害申告の状況について、1992~1993年に131名、2000年時点で218名、2013年時点で219名の被害者が名乗り出たこと、うち46名が名前と顔を明らかにしたことを報告し、1993年に「日本帝国主義の朝鮮占領被害調査委員会」が出した「日本帝国主義による『従軍慰安婦』犯罪事件の真相調査中間報告」にもとづき、被害者の出生地、連行時の年齢、連行先、連行年、身体被害の状況などについて報告されました。

 

 被害者の金英実さんと鄭玉順さんの証言も紹介される中で、1998年にフォトジャーナリストの伊藤孝司さんが撮影・編集した鄭玉順さんの証言映像が約20分にわたって上映されました。日本兵が「慰安婦」とされた女性の足と首をつかみ釘がたくさん出ている板の上をごろごろと転がしたことや、鄭さん自身が鉄の棒で頭をめった打ちにされ水拷問を加えられ、さらには墨をつけた針がたくさんついた塊を口に無理やり入れられ、胸や腹を刺されたせいで今も舌や唇、胸と腹に青黒い跡が残っていることが鄭さんのからだ、肉声、表情を通じて伝わり、会場内は衝撃に包まれました。

 

 金優綺さんはまた、朝鮮民主主義人民共和国では日本軍性奴隷問題に関する韓日「合意」後、外務省代弁人や「朝鮮日本軍性奴隷及び強制連行被害者問題対策委員会」(朝対委)代弁人などによって、米国主導の米日韓三角軍事同盟強化批判や朝鮮半島の北側にもいる被害者の存在、日本政府による法的責任認知・被害者の名誉回復・再発防止措置の要求を内容とした非難が相次いでいることを紹介し、2016年2月に朝対委の委員が、朝鮮在住の被害者が韓日「合意」に対して「私たちを二度辱める冒涜行為だ。日本と南朝鮮当局を絶対に許さない」と話していると紹介した『朝鮮新報』のインタビュー記事を紹介しました。最後に、日本政府がどれだけ日本軍性奴隷問題を封じ込めようとしても、被害者の権利を救済しない限り、日本政府による当時の国際法・国内法違反、現在の国際人権条約違反、人道に対する罪に相当する重大な国際法上の違法行為という事実は不変であり、日本政府は日本軍性奴隷制に関するこのような法的責任を認めたうえで、真相究明・公式謝罪・金銭賠償・責任者処罰・歴史教育・被害者を貶める行為の鎮圧などを行わなければならないと話されました。

 

 最後のパネラーとして、金美恵さん(東京大学大学院特任研究員)が「日本軍『慰安婦』犠牲者 裵奉奇さんを通じてみる朝鮮半島の分断と『在沖朝鮮人史』」と題して報告されました。金美恵さんはまず、長らく韓国社会に広く知られることのなかった沖縄在住の日本軍性奴隷制サバイバーである裵奉奇さんに関心を持ったきっかけとして、1999年に「ナヌムの家」のスニムと共に渡嘉敷島の「赤瓦の家」と呼ばれた元「慰安所」を訪ねた際、スニムが裵奉奇さんのことを話しながら、裵奉奇さんが韓国で大きく取り上げられなかった理由を、裵奉奇さんを支援していたのが「朝鮮総聯の人々」だったからと話したことを挙げられました。

 

 金美恵さんは続いて、1914年に忠清南道に生まれ、日本軍によって1943年に沖縄、1944年11月に渡嘉敷島の「慰安所」へ連行された植民地時代、そして日本敗戦後は米軍占領下の収容所に入れられ、飢餓状態に近い空腹とマラリアに苦しみ、その後も異国での放浪生活をしながら人間忌避症・神経痛・頭痛・潔癖症など沖縄戦のPTSDともいえる苦しみに苛まれた米軍占領時代の裵奉奇さんの軌跡について話され、「だまされて連れてこられて、知らんくにに棄てられるさね」と話した裵奉奇さんの証言と生き様について紹介されました。そして沖縄施政権返還後、強制送還を避けるために自ら日本軍「慰安婦」として強制連行されたことを証明せざるを得なかったこと、その後は1972年9月に結成された総聯沖縄県本部の金賢玉さん・金洙燮さん夫妻と出会い交流を深められ、1977年4月23日に『朝鮮新報』上で自身の被害を告発されたことを紹介されました。

 

 また裵奉奇さんの生と関連する問題意識として、沖縄戦の朝鮮人生存者と残留者について、「慰安婦」被害者のうち生存者の数に関するGHQ文書や、朝鮮人の米軍捕虜に関する資料などを紹介され、施政権返還後の在沖朝鮮人の法的地位について触れ、1971年に韓国政府が沖縄に存在した戦前からの滞在者に対し協定永住権の付与を日本政府に交渉したが、日本の法務省が「沖縄在住の韓国人に改めて協定永住を認めることははない」という見解を出していたことなどを報告されました。そして最後に、裵奉奇さんは入管特例法施行の前(1991年10月17日)に亡くなられたため、結果的に特別永住資格を取得できないまま亡くなられたこと、金賢玉さんが裵奉奇さんの遺体を引き取りたいと申し出たときも、韓国籍の裵奉奇さんを朝鮮籍の金賢玉さんが引き取ることはできないという理由で警察から遺体の引き取りを拒否されたことを紹介され、裵奉奇さんの生には最後まで朝鮮半島の南北分断の悲劇がまとわりついていたと話されました。

 

 質疑応答の時間には、日韓における「過去清算」運動の今後の方向性や、報告の中で紹介された朝鮮在住被害者の言葉の意味、沖縄にある「平和の礎」に朝鮮人「慰安婦」の名が刻まれているのかなどについて質問があり、パネラーがそれぞれ応答しました。最後に、金美恵さんからは裵奉奇さんと金学順さんのカミングアウトの性質の違い、金優綺さんからは日本軍性奴隷問題の克服が朝鮮半島の平和的統一を切り開く可能性、李杏理さんからは日本軍性奴隷制サバイバーを記憶することの重要性についてそれぞれ発言があり、初めから最後まで熱気を帯びたシンポジウムは終了しました。

 

 

【参加者の感想】

 

▼「慰安婦」問題についてはニュースで見るくらいで、どんなにひどい扱いを受けているのか実際には知りませんでした。証言者の方から語られることの重さ、これを加害者側の日本人である私が知らないことは恥ずかしいと思いました。いつも、戦争のことになるとどうしても日本は被害者面をしがちです。日本もアジアの国でどんなに残虐なことをしていたのか教えるべきです。私自身も深めていかないとなと思いました。

 

▼韓日「合意」のニュースをテレビで見たとき、知識の浅い自分でも「そんな解決法なんてありえない」と思ったのを今でも覚えています。ただ、自分が何に対してどのような疑問を持ったのか、今日まですごく曖昧でした。とてもわかりやすく解説していただき、今更ながら少し知識が深まりました。

 

▼朝鮮民主主義人民共和国に関する悪意に満ちた米国とそれに追随する日本政府による一方的な情報の氾濫の中で、今日のシンポは非常に意義あるものであったと思います。

 

▼朝鮮の鄭玉順さんのビデオ上映、大変な迫力がありました。若い参加者が多く、励まされます。

 

▼共和国に住む被害者や在沖朝鮮人というテーマは、まったく知らずに思いも及ばずに自分が過ごしてきたものであり、教えていただけたことに感謝します。

 

▼今、日本政府が日本軍「慰安婦」問題をお金で解決しようとしていること、目に見えない圧力でこの事実を消し去ろうとしていることを知りました。「慰安婦」の方たちがどれだけつらかったか、苦しい思いをしたのかを考えると、今の日本政府の対応について怒りを感じ、さらには悲しみも感じます。もっと「慰安婦」問題を知り、今の日本、米国、南朝鮮、共和国の関係について学び、いろんな人に伝えていきたいです。

 


 

 4がつ23にち、ほんぶかいはつとなる こうかいしんぽじうむ 「にほんぐん『いあんふ』もんだいとちょうせんはんとうのぶんだん~ふかしかされたひがいしゃをみつめて~」を おこないました。さんかしゃは 150めい、うち ざいにちどうほうが やく90めいで 6わりを しめました。ジェンダーべつでは じょせいが やく100めい、だんせいが やく50めいでした。せだいべつでは 10~30だいが やく80めいで かはんすうを しめ、ざいにちどうほうがくせいさんかしゃは やく50めいで さんかしゃの 3ぶんの1を しめました。

 

 かいかいに あたって、ほんぶかいせきにんしゃの りちょんみさんから ほんぶかいの これまでの かつどうないようが しょうかいされました。2002ねんから ざいにちちょうせんじんじょせいを ちゅうしんとした がくしゅうかいを おこないながら、2013ねんからは こうかいで れんぞくこうざを かいさいし、2014ねんには 「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーとちょうさ」を じっしし ほうこくしょを はっかん、2015ねんから、にほんぐんせいどれいせいさばいばー ぺぽんぎさんの しょうげんが 『ちょうせんしんぽう』に けいさいされたひ(1977.4.23)を きねんして、4がつ23にちに にほんぐん「いあんふ」もんだいについて かんがえるための 「4.23あくしょん」をおこなってきたことなどが はなされました。

 

 しんぽじうむでは まず、りへんりさん(ひとつばしだいがく だいがくいんはかせかてい)が「かんにちのだんごうと 『いあんふ』もんだいの げんざい」について ほうこく。2014ねんいこうの 12かいにわたる かんにちがいむきょくちょうきょうぎや、りぴょんぎだいとうりょうひしょしつちょう(もとこっかじょうほういんちょう)と やちしょうたろうこっかあんぜんほしょうきょくちょうによる 「いあんふ」もんだいについての きょうぎ、かんにちしゅのうかいだんなどをへて 2015ねん12がつ28にちにかんにち「ごうい」がはっぴょうされ、ただちに けりーべいこくぼうちょうかんが 「かんげいする」との せいめいを はっぴょうしたこと、また「ごうい」いこう、かんこくこくぼうしょうと ざいかんべいぐんによる こうこうどぼうえいみさいる(さーど)の はいびや、かんにちかんの 「ひみつぐんじじょうほうほごきょうてい」しょめい・はっこう、かんべいにちさんこくがいしょうかいだんにおける にほんによる ぷさん「しょうじょぞう」いてんの ようせいや、ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくと かくの「きょうい」への たいおうが きょうぎされたことなどのけいいが ていねいにほうこくされ、にほんぐんせいどれいもんだいについての かんにち「ごうい」は「かんべいにちぐんじどうめいの きょうかを はかるための どうぐに された」と きょうちょうされました。

 

 りへんりさんは また、にほんぐん「いあんふ」もんだいについて 「ふへんてきな じんけんもんだい」 あるいは 「じょせいに たいする ぼうりょくの もんだい」であるという そくめんのみを きょうちょうするとき、ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくと そこにいる ひがいしゃの そんざいに たいする しこうのしきいを もうけてしまっているのではないか というもんだいていきを されながら、かんべいにちによる ぐんじどうめいきょうかという もくてきのなかに 「ごうい」があり、にほんによる ちょうせんはんとうの みなみがわとのわかいは きたがわにたいする てきたいと せっとであること、かんべいにちの ぐんじどうめいの きょうかによって ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくにおける つぎなるせんそうと せいぼうりょくの さいえんが なされるのではないかという ききかんを ひょうめいされました。 

 

 つづいて、きむうぎさん(ざいにほんちょうせんじんじんけんきょうかい じむきょくいん)が「ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくの ひがいしゃと 『ごうい』への はんのう」についてほうこく。ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくにおける にほんぐんせいどれいせいさばいばーの ひがいしんこくの じょうきょうについて、1992~1993ねんに131めい、2000ねんじてんで218めい、2013ねんじてんで219めいのひがいしゃが なのりでたこと、うち46めいが なまえとかおをあきらかにしたことを ほうこくし、1993ねんに「にほんていこくしゅぎの ちょうせんせんりょうひがいちょうさいいんかい」がだした「にほんていこくしゅぎによる『じゅうぐんいあんふ』はんざいじけんの しんそうちょうさちゅうかんほうこく」にもとづき、ひがいしゃの しゅっせいち、れんこうじの ねんれい、れんこうさき、れんこうねん、しんたいひがいの じょうきょうなどについて ほうこくされました。

 

 ひがいしゃの きむよんしるさんと ちょんおっすんさんの しょうげんも しょうかいされるなかで、1998ねんに ふぉとじゃーなりすとの いとうたかしさんが さつえい・へんしゅうした ちょんおっすんさんの しょうげんえいぞうが やく20ぷんにわたって じょうえいされました。にほんへいが「いあんふ」とされた じょせいの あしとくびをつかみ くぎがたくさんでているいたのうえを ごろごろところがしたことや、ちょんさんじしんが てつのぼうで あたまをめったうちにされ みずごうもんをくわえられ、さらには すみをつけた はりがたくさんついたかたまりを くちにむりやりいれられ、むねやはらをさされたせいで いまもしたやくちびる、むねとはらに あおぐろいあとがのこっていることが ちょんさんのからだ、にくせい、ひょうじょうをつうじてつたわり、かいじょうないは しょうげきに つつまれました。

 

 きむうぎさんはまた、ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくでは にほんぐんせいどれいもんだいにかんする かんにち「ごうい」ご、がいむしょうだいべんにんや 「ちょうせんにほんぐんせいどれい およびきょうせいれんこうひがいしゃもんだいたいさくいいんかい」(ちょうたいい)だいべんにんなどによって、べいこくしゅどうの べいにちかんさんかくぐんじどうめいきょうかひはんや ちょうせんはんとうの きたがわにもいる ひがいしゃのそんざい、にほんせいふによる ほうてきせきにんにんち・ひがいしゃのめいよかいふく・さいはつぼうしそちの ようきゅうを ないようとした ひなんが あいついでいることを しょうかいし、2016ねん2がつに ちょうたいいの いいんが、ちょうせんざいじゅうの ひがいしゃが かんにち「ごうい」にたいして「わたしたちを にど はずかしめる ぼうとくこういだ。にほんと みなみちょうせんとうきょくを ぜったいに ゆるさない」とはなしていると しょうかいした『ちょうせんしんぽう』の いんたびゅーきじを しょうかいしました。さいごに、にほんせいふが どれだけにほんぐんせいどれいもんだいを ふうじこめようとしても、ひがいしゃのけんりを きゅうさいしないかぎり、にほんせいふによる とうじのこくさいほう・こくないほういはん、げんざいの こくさいじんけんじょうやくいはん、じんどうにたいする つみにそうとうするじゅうだいな こくさいほうじょうの いほうこういという じじつはふへんであり、にほんせいふは にほんぐんせいどれいせいに かんする このような ほうてきせきにんを みとめたうえで、しんそうきゅうめい・こうしきしゃざい・きんせんばいしょう・せきにんしゃしょばつ・れきしきょういく・ひがいしゃを おとしめる こういのちんあつなどを おこなわなければならないと はなされました。

 

 さいごのぱねらーとして、きむみへさん(とうきょうだいがく だいがくいんとくにんけんきゅういん)が「にほんぐん『いあんふ』ぎせいしゃ ぺぽんぎさんを つうじて みる ちょうせんはんとうの ぶんだんと『ざいちゅうちょうせんじんし』」とだいして ほうこくされました。きむみへさんはまず、ながらく かんこくしゃかいに ひろくしられることのなかった おきなわざいじゅうの にほんぐんせいどれいせいさばいばーである ぺぽんぎさんに かんしんをもった きっかけとして、1999ねんに「なぬむのいえ」のすにむと ともに とかしきじまの「あかがわらのいえ」とよばれた もと「いあんじょ」を たずねたさい、すにむが ぺぽんぎさんのことを はなしながら、ぺぽんぎさんが かんこくでおおきく とりあげられなかった りゆうを、ぺぽんぎさんを しえんしていたのが 「ちょうせんそうれんのひとびと」だったから とはなしたことを あげられました。

 

 きむみへさんは つづいて、1914ねんに ちゅんちょんなむどに うまれ、にほんぐんによって 1943ねんにおきなわ、1944ねん11がつにとかしきじまの 「いあんじょ」へ れんこうされた しょくみんちじだい、そして にほんはいせんごは べいぐんせんりょうかの しゅうようじょに いれられ、きがじょうたいにちかい くうふくと まらりあに くるしみ、そのごも いこくでの ほうろうせいかつを しながら にんげんきひしょう・しんけいつう・ずつう・けっぺきしょうなど おきなわせんの ぴーてぃーえすでぃーともいえる くるしみに さいなまれた べいぐんせんりょうじだいの ぺぽんぎさんの きせきについてはなされ、「だまされてつれてこられて、しらんくににすてられるさね」とはなした ぺぽんぎさんのしょうげんと いきざまについて しょうかいされました。そして おきなわしせいけんへんかんご、きょうせいそうかんを さけるために みずから にほんぐん「いあんふ」として きょうせいれんこうされたことを しょうめいせざるを えなかったこと、そのごは1972ねん9がつに けっせいされた そうれんおきなわけんほんぶの きむひょのっさん・きむすそぷさんふさいと であい こうりゅうを ふかめられ、1977ねん4がつ23にちに『ちょうせんしんぽう』じょうで じしんの ひがいを こくはつされたことを しょうかいされました。

 

 また ぺぽんぎさんの せいと かんれんする もんだいいしきとして、おきなわせんの ちょうせんじんせいぞんしゃと ざんりゅうしゃについて、「いあんふ」ひがいしゃのうち せいぞんしゃの かずにかんする じーえいちきゅーぶんしょや、ちょうせんじんの べいぐんほりょに かんする しりょうなどを しょうかいされ、しせいけんへんかんごの ざいちゅうちょうせんじんの ほうてきちいについて ふれ、1971ねんに かんこくせいふが おきなわに そんざいした せんぜんからの たいざいしゃにたいし きょうていえいじゅうけんの ふよを にほんせいふに こうしょうしたが、にほんの ほうむしょうが「おきなわざいじゅうの かんこくじんに あらためて きょうていえいじゅうを みとめることはない」という けんかいを だしていたこと などを ほうこくされました。そしてさいごに、ぺぽんぎさんは にゅうかんとくれいほうせこうのまえ(1991ねん10がつ17にち)になくなられたため、けっかてきに とくべつえいじゅうしかくを しゅとくできないまま なくなられたこと、きむひょのっさんが ぺぽんぎさんの いたいをひきとりたいと もうしでたときも、かんこくせきの ぺぽんぎさんを ちょうせんせきのきむひょのっさんが ひきとることはできないという りゆうで けいさつから いたいのひきとりを きょひされたことを しょうかいされ、ぺぽんぎさんのせいには さいごまで ちょうせんはんとうの なんぼくぶんだんの ひげきが まとわりついていたと はなされました。

 

 しつぎおうとうのじかんには、にっかんにおける「かこせいさん」うんどうの こんごの ほうこうせいや、ほうこくのなかで しょうかいされた ちょうせんざいじゅうひがいしゃの ことばのいみ、おきなわにある「へいわのいしじ」にちょうせんじん「いあんふ」の なが きざまれているのか などについて しつもんがあり、ぱねらーが それぞれおうとうしました。さいごに、きむみへさんからは ぺぽんぎさんと きむはっすんさんの かみんぐあうとの せいしつのちがい、きむうぎさんからは にほんぐんせいどれいもんだいの こくふくが ちょうせんはんとうの へいわてきとういつを きりひらくかのうせい、りへんりさんからは にほんぐんせいどれいせいさばいばーを きおくすることの じゅうようせいについて それぞれ はつげんがあり、はじめからさいごまで ねっきをおびた しんぽじうむは しゅうりょうしました。

 

 

【さんかしゃの かんそう】

 

▼「いあんふ」もんだいについては にゅーすで みるくらいで、どんなに ひどいあつかいをうけているのか じっさいには しりませんでした。しょうげんしゃのかたから かたられることの おもさ、これを かがいしゃがわの にほんじんである わたしが しらないことは はずかしいと おもいました。いつも、せんそうのことになると どうしても にほんは ひがいしゃづらを しがちです。にほんも あじあのくにで どんなにざんぎゃくなことをしていたのか おしえるべきです。わたしじしんも ふかめていかないとなと おもいました。

 

▼かんにち「ごうい」のにゅーすを てれびで みたとき、ちしきのあさい じぶんでも「そんなかいけつほうなんて ありえない」とおもったのを いまでも おぼえています。ただ、じぶんが なににたいして どのような ぎもんをもったのか、きょうまで すごくあいまいでした。とてもわかりやすく かいせつしていただき、いまさらながら すこし ちしきが ふかまりました。

 

▼ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくに かんする あくいに みちた べいこくと それについずいする にほんせいふによる いっぽうてきな じょうほうの はんらんのなかで、きょうのしんぽは ひじょうに いぎあるものであったとおもいます。

 

▼ちょうせんの ちょんおっすんさんの びでおじょうえい、たいへんな はくりょくがありました。わかい さんかしゃがおおく、はげまされます。

 

▼きょうわこくにすむ ひがいしゃや ざいちゅうちょうせんじんという てーまは、まったくしらずに おもいもおよばずに じぶんがすごしてきたものであり、おしえていただけたことにかんしゃします。

 

▼いま、にほんせいふが にほんぐん「いあんふ」もんだいを おかねで かいけつしようとしていること、めにみえない あつりょくで このじじつを けしさろうとしていることをしりました。「いあんふ」のかたたちが どれだけつらかったか、くるしいおもいを したのかを かんがえると、いまの にほんせいふの たいおうについ ていかりをかんじ、さらには かなしみもかんじます。もっと「いあんふ」もんだいを しり、いまのにほん、べいこく、みなみちょうせん、きょうわこくの かんけいについてまなび、いろんなひとに つたえていきたいです。