2017年連続講座第3回報告 「沖縄フェミニズムを育む~沖縄人×女性×セクシュアル・マイノリティ」


 

**ふたつめは かんじ なし**

 

 性差別撤廃部会では2017年9月14日、今年の連続講座「だれいき!マイノリティ女性からみる日本社会~アイヌ、琉球・沖縄、部落、在日朝鮮人~」の第3回を行いました。今回は沖縄から玉城福子さんをお招きしてお話をうかがいました。

 以下、当日の報告と参加者の感想、次回の講座案内を共有させていただきます。ぜひご一読いただければ幸いです!

【報 告】

 今回の講座には合計38名の方々が参加してくださいました。10~30代参加者が6割、40代以上の参加者が4割でした。在日朝鮮人参加者が24名でした。

 玉城さんは、「沖縄フェミニズムを育む」 というタイトルのもと、ご自身の個人史、関西と沖縄でのセクシュアル・マイノリティや「慰安婦」・反植民地主義に関わる活動紹介ののち、沖縄差別と女性差別の交差点、沖縄フェミニズムのお話で締めくくりました。

 まず、エッセイ「移動がくれた出会い」(『家族写真をめぐる私たちの歴史』(御 茶ノ水書房、2016年))をもとに、パーソナルなご経験や沖縄北部の出自、幼少期に九州に移住し沖縄に戻って来たときに直面した文化のギャップ、言語の障壁についてお話をされました。後に「(日本人フェミニストは、)言語が強いている痛みに鈍感なのではないか」とも話されました。

 9.11と沖縄国際大学ヘリ墜落の衝撃からヤマトとの温度差を感じ、さらに、「沖縄では平和教育に一生懸命だけれど、そこで育った人が日本軍「慰安婦」について知らないとはどういうことなのか」という疑問から、「慰安婦」研究に着手されました。

  エッセイに書ききれなかったこととして、「家族の中で女性はつい我慢してしまう。この社会で女性は家族のために我慢するように教えられる。友人・社会運動で考えを広げられ、気持ちが楽になった」と補足されました。これは、日本社会の周縁において同じ痛みを背負う家族という共同体の中において、女性はとくに性差別にもとづく我慢や忍耐をしいられるという事実として在日朝鮮人女性とも共通するものであると報告者は感じました。

 次に、活動紹介として、関西や沖縄でなさってきたセクシュアリティ/性に関する取り組みを話されました。「同性愛・クィアでもいいんだ」と気づいた過程や、パレードでアメリカ大使への抗議や「戦闘機がとばない沖縄でエロいことがしたい」とメッセージを発するなど活動の軌跡をスライドとともに見せてくださいました。

  沖縄に帰ってからも女性のセクシュアル・マイノリティが参加しやすい場づくりをするなど、マイノリティの中のマイノリティに目を向ける活動を続けてこられた。「多様性は目指すものではなく単なる事実」であり、LGBTのなかで植民地主義を、フェミニズムのなかでセックスワーカーを、脱植民地のなかで性差別を、コミュニティのなかで不可視化されがちな存在(ダブルマイノリティ)を見ていく大切さを語られました。
 
 次に、沖縄差別と女性差別の交差点として、沖縄女性の歴史や、辻遊郭、沖縄にあった日本軍「慰安所」について、実際にそのなかで体験をした女性の証言や手記を交えて話されました。
 幼少期に辻遊郭に売られ、米国で昨年度亡くなられた正子・ロビンズ・サマーズの自伝『画家 正子・R・サマーズの生涯』は、沖縄戦後史においても貴重な証言であると指摘されました。
  最後に、沖縄フェミニズムを育むという話しの中で、「フェミニズムとは、あらゆる状況に内在的…そこにインサイダーである者が構築しうる」(鄭瑛惠)という言葉を引き、当事者であるマイノリティ女性自身が複合差別をつぶさに見つめるフェミニズムを生み出していけるというお話でしめくくられました。

 質疑応答では、在日朝鮮人女性との共通項や違い、テロリズムへの想像力と「民主的な訴え」の可能性について、沖縄戦下の朝鮮人と沖縄人の交流、クィア運動への米兵の参加などについて質問があり、議論となりました。

 

【参加者の感想】

 

◯自分自身もマイノリティでありながら、あまり他のマイノリティについて知識が少なく、参考になることが多かったです。明るい面ばかりクローズアップされがちな沖縄の事実、隠蔽される事実、あまり外に声が届かない面など、在日の問題とも共通点を感じました。

 

◯良かったです。自分の中で知らず知らずのうちに差別をしていたり知らないふり、まったく気づいていないことがたくさんあったと感じました。また時間の経過とともに忘れてしまった、当時の自分の中で大事なことだったり、衝撃的なことを思いださせてくれました。「自分の中の差別とたたかおう」という言葉がとても響きました。

 

◯日本の中でのintersectionalityとの向き合い方へのヒントをもらえたと思います。私はいわゆる日本人としての特権と向き合い、沖縄、在日、アイヌ、部落女性と本当の意味で「連帯」をするということは何かと、考えていきたいと思います。自分の中にいる植民者と戦っていきたいと思います。

 

【次回の講座案内はこちら】

 


 

 せいさべつてっぱいぶかいでは 2017ねん9がつ14にち、ことしの れんぞくこうざ「だれいき!まいのりてぃじょせいから みる にほんしゃかい~あいぬ、りゅうきゅう・おきなわ、ぶらく、ざいにちちょうせんじん~」のだい3かいを おこないました。こんかいは おきなわから たましろふくこさんを おまねきして おはなしをうかがいました。

 いか、とうじつの ほうこくと さんかしゃの かんそう、じかいの こうざあんないを きょうゆうさせていただきます。ぜひごいちどくいただければ さいわいです!

【ほうこく】

 こんかいの こうざには ごうけい38めいの かたがたが さんかしてくださいました。10~30だい さんかしゃが 6わり、40だいいじょうの さんかしゃが 4わりでした。ざいにちちょうせんじんさんかしゃが24めいでした。

 たましろさんは、「おきなわふぇみにずむを はぐくむ」 という たいとるのもと、ごじしんの こじんし、かんさいと おきなわでの せくしゅある・まいのりてぃや「いあんふ」・はんしょくみんちしゅぎに かかわる かつどうしょうかいののち、おきなわさべつと じょせいさべつの こうさてん、おきなわふぇみにずむの おはなしで しめくくりました。

 まず、えっせい「いどうがくれた であい」(『かぞくしゃしんをめぐる わたしたちの れきし』(おちゃのみずしょぼう、2016ねん))をもとに、ぱーそなるな ごけいけんや おきなわほくぶのしゅつじ、ようしょうきに きゅうしゅうに いじゅうし おきなわに もどってきたときに ちょくめんした ぶんかのぎゃっぷ、げんごの しょうへきについて おはなしをされました。のちに「(にほんじんふぇみにすとは、)げんごが しいている いたみにどんかんなのではないか」とも はなされました。

 9.11と おきなわこくさいだいがく へりついらくの しょうげきから やまととの おんどさをかんじ、さらに、「おきなわでは へいわきょういくに いっしょうけんめいだけれど、そこで そだったひとが にほんぐん「いあんふ」について しらないとは どういうことなのか」という ぎもんから、「いあんふ」けんきゅうに ちゃくしゅされました。

 えっせいに かききれなかったこととして、「かぞくのなかで じょせいはつい がまんしてしまう。このしゃかいで じょせいは かぞくのために がまんするように おしえられる。ゆうじん・しゃかいうんどうで かんがえをひろげられ、きもちがらくになった」と ほそくされました。これは、にほんしゃかいの しゅうえんにおいて おなじいたみを せおう かぞくという きょうどうたいのなかにおいて、じょせいは とくに せいさべつにもとづく がまんや にんたいをしいられるというじじつとして ざいにちちょうせんじんじょせいとも きょうつうするものであると ほうこくしゃは かんじました。

 つぎに、かつどうしょうかいとして、かんさいや おきなわでなさってきた せくしゅありてぃ/せいにかんする とりくみをはなされました。「どうせいあい・くぃあでも いいんだ」と きづいた かていや、ぱれーどで あめりかたいしへの こうぎや「せんとうきがとばない おきなわで えろいことがしたい」とめっせーじを はっするなど かつどうの きせきを すらいどとともに みせてくださいました。

  おきなわに かえってからも じょせいの せくしゅある・まいのりてぃが さんかしやすい ばづくりをするなど、まいのりてぃのなかの まいのりてぃに めをむける かつどうを つづけてこられた。「たようせいは めざすものではなく たんなるじじつ」であり、LGBTのなかで しょくみんちしゅぎを、ふぇみにずむのなかで せっくすわーかーを、だつしょくみんちのなかで せいさべつを、こみゅにてぃのなかで ふかしかされがちな そんざい(だぶるまいのりてぃ)を みていく たいせつさを かたられました。
 
 つぎに、おきなわさべつと じょせいさべつの こうさてんとして、おきなわじょせいのれきしや、つじゆうかく、おきなわにあった にほんぐん「いあんじょ」について、じっさいに そのなかで たいけんをした じょせいのしょうげんや しゅきをまじえて はなされました。
 ようしょうきに つじゆうかくにうられ、べいこくで さくねんどなくなられた まさこ・ろびんず・さまーずの じでん『がか まさこ・R・さまーずの しょうがい』は、おきなわせんごしにおいても きちょうなしょうげんであると してきされました。
  さいごに、おきなわふぇみにずむを はぐくむという はなしの なかで、「ふぇみにずむとは、あらゆるじょうきょうに ないざいてき…そこにいんさいだーであるものが こうちくしうる」(ちょんよんへ)ということばをひき、とうじしゃである まいのりてぃじょせいじしんが ふくごうさべつを つぶさに みつめるふぇみにずむを うみだしていけるという おはなしで しめくくられました。

 しつぎおうとうは、ざいにちちょうせんじんじょせいとの きょうつうこうやちがい、てろりずむへの そうぞうりょくと「みんしゅてきな うったえ」のかのうせいについて、おきなわせんかの ちょうせんじんと おきなわじんの こうりゅう、くぃあうんどうへの べいへいの さんかなどについて しつもんがあり、ぎろんとなりました。

【さんかしゃの かんそう】

◯じぶんじしんも まいのりてぃでありながら、あまり ほかの まいのりてぃについて ちしきが すくなく、さんこうになることが おおかったです。あかるい めんばかり くろーずあっぷされがちな おきなわのじじつ、いんぺいされる じじつ、あまりそとに こえがとどかない めんなど、ざいにちの もんだいとも きょうつうてんを かんじました。

◯よかったです。じぶんのなかで しらずしらずのうちに さべつをしていたり しらないふり、まったくきづいていないことが たくさんあったと かんじました。またじかんの けいかとともに わすれてしまった、とうじの じぶんのなかで だいじなことだったり、しょうげきてきなことを おもいださせてくれました。「じぶんのなかの さべつと たたかおう」という ことばがとてもひびきました。

◯にほんのなかでの intersectionalityとの むきあいかたへの ひんとを もらえたと おもいます。わたしはいわゆるにほんじんとしての とっけんと むきあい、おきなわ、ざいにち、あいぬ、ぶらくじょせいと ほんとうのいみで「れんたい」をするということは なにかと、かんがえていきたいと思います。じぶんの なかにいる しょくみんしゃと たたかっていきたいと思います。

 

じかいの こうざあんないは こちら