【エッセイ・私たちの声】露出度が高い服。あり? なし?


 中学生の保健の授業。生徒たちがグループごとに机をつけて真剣に協議している。内容はモラルについて。配布されたワークシートに従って、グループエンカウンター方式で議論した内容をまとめていく。

 「露出度が高い服で街を出歩く。あり? なし?」の設問では、「知らない人なら別にいいけど、身内や彼女なら恥ずかしい。」「そもそも露出度ってどこからが高いの?」「膝上は見えても良いけど、太ももは見えちゃダメ。」「タンクトップはありだけど、キャミソールはダメ。」……など、思春期真っただ中の子どもたちの意見は具体的。ボディータッチの項目では「グーでパンチするのは良いけど、パーで2秒以上触れるのは……うわー手のひらって情報量多いよね、ダメダメ(笑)。」「女子が男子にやるのは良いけど、男子がやったらセクハラ。」という女子の意見に対し、「なんで?! それ、逆セクハラ! いや、パワハラ!!」と男子の反論。ユニークな議論が実演付きで行われていた。

 テレビをつければ、子どもたちと同じ年頃のアイドルグループが、ミニスカートやビキニ姿で歌い踊っている世の中である。「性」は商品化・キャラクター化され、SNSを通じて一般人までもがそれを配信する。子どもたちの判断基準となるのは、一体何だろう? 在日1世たちに見られた儒教的思想なんて今の子どもたちは知る由もない。

 「夜に異性と出かける。あり? なし?」という設問に対し「別に悪いことしてなければ良いじゃん。」「特別な用事があるなら会うのは良し。でも会って建物の中に入るのはダメ。」

 子どもたちの活発な意見交換に、私はただただ感心するばかり。そのとき、ある女子生徒が断固とした口調で言った。「アボジが心配するからだめ。」

 なるほど。社会的秩序や倫理観が崩壊しつつあるこの社会で、「モラル」とは大切な人の気持ちを慮ることから生まれるかも知れない。「こんなことをしたら、相手が嫌がるかな。」それとは逆に、「こんなことしてあげたら相手が喜ぶかな」と想像力を働かせることって大事だな、と子どもの姿から改めて気づかされた。

 大切な人が心の中にいるから、自分を守り矩(のり)をこえない。

 大切な人のために自分らしく頑張る。

 回しっぱなしの洗濯機、夜中にはっと目が覚めたらきれいに干してあった。昭和生まれの更年期男子、家事を率先してはやらないけれど、家族が喜ぶのならと、クックパッドを見ながら悪戦苦闘。そんな優しさに支えられ、私は私らしくいられるのかも。

 職員室のコップをそっと洗って戻す男のソンセンニム。

 「当たり前」を「ありがとう」に変える変換スイッチが、まあるい社会を作るのだろう。(李英福 茨城朝鮮初中高級学校講師、介護福祉士)

●月刊イオ2017年2月号に掲載

illustration_宋明樺


  ちゅうがくせいの ほけんのじゅぎょう。せいとたちが ぐるーぷごとに つくえをつけて しんけんにぎろんしている。ないようは もらるについて。はいふされた わーくしーとにしたがって、ぐるーぷえんかうんたーほうしきで ぎろんしたないようを まとめていく。

 「ろしゅつどがたかいふくで まちをであるく。あり? なし?」のせつもんでは、「しらないひとなら べつにいいけど、みうちや かのじょならはずかしい。」「そもそも ろしゅつどって どこからがたかいの?」「ひざうえは みえてもいいけど、ふとももは みえちゃだめ。」「たんくとっぷは ありだけど、きゃみそーるは だめ。」……など、ししゅんきまっただなかのこどもたちのいけんは ぐたいてき。ぼでぃーたっちのこうもくでは「ぐーで ぱんちするのはいいけど、ぱーで にびょういじょうふれるのは……うわー てのひらって じょうほうりょうおおいよね、だめだめ(わらい)。」「じょしが だんしにやるのはいいけど、だんしが やったらせくはら。」という じょしのいけんにたいし、「なんで?! それ、ぎゃくせくはら! いや、ぱわはら!!」とだんしの はんろん。ゆにーくな ぎろんが じつえんつきで おこなわれていた。

 てれびをつければ、こどもたちと おなじとしごろの あいどるぐるーぷが、みにすかーとや びきにすがたでうたいおどっている よのなかである。「せい」はしょうひんか・きゃらくたーかされ、えすえぬえすを つうじて いっぱんじんまでもが それをはいしんする。こどもたちの はんだんきじゅんとなるのは、いったいなんだろう? ざいにちいっせいたちにみられた じゅきょうてきしそうなんて いまのこどもたちはしるよしもない。

 「よるに いせいとでかける。あり? なし?」というせつもんにたいし「べつに わるいことしてなければいいじゃん。」「とくべつなようじがあるなら あうのはよし。でも あって たてもののなかに はいるのはだめ。」

 こどもたちの かっぱつないけんこうかんに、わたしは ただただかんしんするばかり。そのとき、あるじょしがくせいが だんことしたくちょうでいった。「あぼじが しんぱいするからだめ。」

 なるほど。しゃかいてきちつじょや りんりかんが ほうかいしつつあるこのしゃかいで、「もらる」とは たいせつなひとのきもちを おもんぱかることから うまれるかもしれない。「こんなことをしたら、あいてがいやがるかな。」それとはぎゃくに、「こんなことしてあげたら あいてがよろこぶかな」と そうぞうりょくを はたらかせることって だいじだな、と こどものすがたから あらためてきづかされた。

 たいせつなひとが こころのなかにいるから、じぶんをまもり のりをこえない。

 たいせつなひとのために じぶんらしくがんばる。

 まわしっぱなしのせんたくき、よなかに はっとめがさめたら きれいにほしてあった。しょうわうまれの こうねんきだんし、かじを そっせんしては やらないけれど、かぞくが よろこぶのならと、くっくぱっどを みながら あくせんくとう。そんなやさしさにささえられ、わたしは わたしらしくいられるのかも。

 しょくいんしつの こっぷをそっとあらって もどす おとこのそんせんにむ。

 「あたりまえ」を「ありがとう」にかえる へんかんすいっちが、まあるいしゃかいをつくるのだろう。(りよんぼく いばらきちょうせんしょちゅうこうきゅうがっこうこうし、かいごふくしし)

●げっかん いお 2017ねん2がつごうに けいさい

illustration_そん みょんふぁ