【エッセイ・私たちの声】生きづらさからの解放


 「性差別の撤廃」と聞いて連想するものは何だろうか。露骨に苦い顔をしたり、よくあるフェミニズム批判に則って「ヒステリックな女の権利主張」だと揶揄する人は少なくない。女性のための運動、人によっては男性を敵視するものであると捉えることもある。

 だが果たして性差別の撤廃・解消とは、女性だけのためのものだろうか。私事になるが、性別役割分業による生きづらさや理不尽さの記憶を辿ると、幼少期の家庭にまで遡る。

  両親が共にフルタイムで働いているにもかかわらず、食事の支度をし、食器を洗い、ゴミを出し、洗濯や掃除を行うのは「母の役目」とされていた。父はよく、疲れていることを免罪符にしては声を荒げ、手を上げた。そんな父の存在を恐れるだけではなく、疎むようになった頃に覚えたものが、性別の違い―特には女性であるが故に押し付けられる「しんどさ」に対する、最初の違和感だった。

 その後大学にて、教養科目としてではあるがジェンダー論を学び、留学同(在日本朝鮮留学生同盟の略称。日本の大学・短大・専門学校に通う学生たちによる団体)においても「性を消費する/されること」について議論を交わす中、その違和感の正体が社会的な性規範による生きづらさであると考えるようになり、運動団体で、あるいは家庭で、「女らしさ」を強要する言説には度々噛みつくようになった。性別という軸で見た場合、体力的にも社会的にも弱者となりうるのは女性であり、また私自身の性自認が女であることから、性差別反対を表明することで、作られた「女性像」からの解放を求めた。

 一方最近になって、職場や運動団体内で交友関係にある男性と関わる中で、また、私の母を含め、様々な事情から一人で家族を養う女性と話す中で、男性もまた、社会によって自身の周りに、あるいは内側に形成された「男性像」に(意識していようがいまいが)抑圧されているのだと感じることが多くなった。

 特には朝鮮のような、家父長制の根強い文化圏において、いわゆる大黒柱とならなければならないというプレッシャーは並大抵のものではないと聞く。これもまたジェンダー規範による「生きづらさ」であり、性差別を撤廃することは、これらの「しんどいモノ」から解放される上で不可欠である。

 さらに言えば、民族という軸においてマイノリティである在日朝鮮人にとって、この社会は性別のみで分けられるものではなく(付け加えると、男と女で二分できるものではない)、民族差別による看過できない「生きづらさ」があり、性差別の問題は後回しにされがちである。あるいは、女性を参加させない祭祀(チェサ)のように、民族性を女子生徒のチマチョゴリに求めるように、「伝統」として根強く残そうとしがちである。

 私は、民族性の保存と性差別の撤廃は二項対立的なものではなく、両立して解決を目指せるものであるべきであり、あってほしいと思う。生きづらさを感じる人間がいる以上、今ある規範や価値観をもう一度見直し、新しい世代が楽に生きられることを目指してみてはどうだろうか。(金紀愛 会社員)

●月刊イオ2017年3月号に掲載

illustration_宋明樺


 「せいさべつの てっぱい」ときいて れんそうするものは なんだろうか。ろこつに にがいかおをしたり、よくある ふぇみにずむひはんに のっとって「ひすてりっくな おんなの けんりしゅちょう」だと やゆするひとは すくなくない。じょせいのための うんどう、ひとによっては だんせいを てきしするものであると とらえることもある。

 だがはたして せいさべつのてっぱい・かいしょうとは、じょせいだけのためのものだろうか。わたくしごとになるが、せいべつやくわりぶんぎょうによる いきづらさや りふじんさの きおくをたどると、ようしょうきの かていにまで さかのぼる。

 りょうしんが ともに ふるたいむで はたらいているにもかかわらず、しょくじのしたくをし、しょっきをあらい、ごみをだし、せんたくやそうじをおこなうのは「ははのやくめ」とされていた。ちちはよく、つかれていることを めんざいふにしては こえをあらげ、てをあげた。そんなちちのそんざいを おそれるだけではなく、うとむようになったころに おぼえたものが、せいべつのちがい―とくには じょせいであるがゆえに おしつけられる「しんどさ」にたいする、さいしょのいわかんだった。

 そのご だいがくにて、きょうようかもくとしてではあるが じぇんだーろんをまなび、りゅうがくどう(ざいにっぽんちょうせんりゅうがくせいどうめい のりゃくしょう。にほんのだいがく・たんだい・せんもんがっこうに かよう がくせいたちによるだんたい)においても「せいをしょうひする/されること」について ぎろんをかわすなか、そのいわかんのしょうたいが しゃかいてきな せいきはんによる いきづらさであると かんがえるようになり、うんどうだんたいで、あるいはかていで、「おんならしさ」をきょうようする げんせつには たびたび かみつくようになった。せいべつという じくでみたばあい、たいりょくてきにも しゃかいてきにも じゃくしゃとなりうるのは じょせいであり、また わたしじしんの せいじにんが じょせいであることから、せいさべつはんたいを ひょうめいすることで、つくられた「じょせいぞう」からの かいほうをもとめた。

 いっぽう さいきんになって、しょくばや うんどうだんたいないで こうゆうかんけいにあるだんせいと かかわるなかで、また、わたしのははをふくめ、さまざまなじじょうから ひとりでかぞくをやしなうじょせいと はなすなかで、だんせいもまた、しゃかいによって じしんのまわりに、あるいはうちがわに けいせいされた「だんせいぞう」に(いしきしていようがいまいが)よくあつされているのだと かんじることがおおくなった。

 とくには ちょうせんのような、かふちょうせいの ねづよいぶんかけんにおいて、いわゆる だいこくばしらと ならなければならないという ぷれっしゃーは なみたいていのものではないときく。これもまた じぇんだーきはんによる「いきづらさ」であり、せいさべつをてっぱいすることは、これらの「しんどいもの」から解放されるうえで ふかけつである。

 さらにいえば、みんぞくという じくにおいて まいのりてぃである ざいにちちょうせんじんにとって、このしゃかいは せいべつのみで わけられるものではなく(つけくわえると、おとことおんなで にぶんできるものではない)、みんぞくさべつによる かんかできない「いきづらさ」があり、せいさべつのもんだいは あとまわしにされがちである。あるいは、じょせいをさんかさせない ちぇさのように、 みんぞくせいを じょしせいとの ちまちょごりにもとめるように、「でんとう」として ねづよくのこそうとしがちである。

 わたしは、みんぞくせいのほぞんと せいさべつのてっぱいは にこうたいりつてきなものではなく、りょうりつして かいけつをめざせるものであるべきであり、あってほしいとおもう。いきづらさをかんじるにんげんが いるいじょう、いまあるきはんや かちかんを もういちどみなおし、あたらしいせだいが らくにいきられることを めざしてみてはどうだろうか。(きむ きえ かいしゃいん)

●げっかん いお 2017ねん3がつごうに けいさい

illustration_そん みょんふぁ