【エッセイ・私たちの声】制度の「罠」を問い直す


 母の介護問題に直面し、支援制度を探していたときのことだ。母の疾患を考慮して精神障害者手帳の申請を検討していた。医療従事者の一人に相談すると「家族に精神障害者がいると、あなたが結婚するときに問題になるかもしれない」と返ってきた。わたしは思わずカッとなり、反射的に「結婚の予定はありません」と返事をして、挨拶もそぞろにその場から立ち去った。

 結婚差別。差別を受ける側として折々に意識させられてきた言葉だ。母の病気は社会から偏見の眼差しを向けられるものとわかってはいたが、医師のその言葉に自分が二重三重に社会から差別される存在だと突きつけられたようだった。悔しくて、しばらく暗鬱な気持ちで日々を過ごした。

 双方の同意によって、配偶者を選択しあうのだから、結婚差別をジェンダーから語ることに違和感を持たれる方もいるかもしれない。けれど、性差別によって限られた生計手段しか選択できず、昇進もガラスの天井に阻まれていることの多い女性たちにとって、結婚は社会を生き抜くための有効な手段となっている。生存自体に関わるために、結婚差別の傷はより深い。

 これまで一方的に、結婚差別の対象にはならないマジョリティだと思っていた友人たちも、結婚に際して相手の家族から信じられないような言葉を浴びせられていた。「資産の少ないシングルマザー家庭は負担が大きい」「抗うつ剤を飲んでいる子なんて家に連れてくるな」。それぞれの事情によって発せられた言葉は異なるが、「嫁」としての価値を値踏みされ、ありのままの自分を拒否されていた。その友人たちはみな、自身の尊厳の回復を模索しながら一人葛藤していた。こうした現実に直面する中で、結婚という制度に対する疑問はどんどんふくらんでいった。それは、卑屈な諦めではない。

 一人前になることや、“異性”と生活することのケジメとして、結婚が通過儀礼のようにされているが、誰とどのように生きるかは私的な領域であり、第三者が口を出せることではない。それがなぜ社会的地位と結びつくのだろうか。また、血縁・地縁関係を基盤とするコミュニティの結束のために、結婚の重要性が叫ばれることもあるが、その結束に本当に婚姻関係が必要なのかは十分に問い直されていない。様々な立場・事情によって法律婚ができない、そもそも認められていない人々が存在するにも関わらず、置いてきぼりにしたまま、結婚を通じて社会やコミュニティからの承認を受け、結婚に付随する社会制度を享受していいのだろうか。

 わたしは法律婚をした人とそうではない人との間に、新たな対立関係を作ろうとしているわけではない。ただ、わたしたちを分断させる社会構造の「罠」を見つけ、その意味をずらしながら、無力化していくことはできると思う。それが、それぞれの生きづらさを緩和していくことに繋がっていくはずだ。他者の切実な選択をただ尊重することに留まらずに、自分自身の選択を問い直すことからまず始めたい。(瀬戸徐映里奈●京都大学大学院 博士後期課程 移民・難民研究)

●月刊イオ2017年5月号に掲載

illustration_宋明樺


 ははの かいごもんだいに ちょくめんし、しえんせいどを さがしていたときのことだ。ははの しっかんを こうりょして せいしんしょうがいしゃてちょうを けんとうしていた。いりょうじゅうじしゃの ひとりに そうだんすると「かぞくに せいしんしょうがいしゃがいると、あなたが けっこんするときに もんだいになるかもしれない」とかえってきた。わたしは おもわずかっとなり、はんしゃてきに「けっこんの よていは ありません」とへんじをして、あいさつもそぞろに そのばから たちさった。

 けっこんさべつ。さべつをうけるがわとして おりおりに いしきさせられてきた ことばだ。ははのびょうきは しゃかいから へんけんのまなざしを むけられるものと わかってはいたが、いしの そのことばに じぶんが にじゅうさんじゅうに しゃかいからさべつされるそんざいだと つきつけられたようだった。くやしくて、しばらく あんうつなきもちで ひびをすごした。

 そうほうのどういによって、はいぐうしゃを せんたくしあうのだから、けっこんさべつを じぇんだーから かたることに いわかんをもたれるかたも いるかもしれない。けれど、せいさべつによって かぎられたせいけいしゅだんしか せんたくできず、しょうしんも がらすのてんじょうに はばまれていることのおおい じょせいたちにとって、けっこんは しゃかいをいきぬくための ゆうこうなしゅだんとなっている。せいぞんじたいに かかわるために、けっこんさべつのきずは よりふかい。

 これまでいっぽうてきに、けっこんさべつのたいしょうにはならない まじょりてぃだとおもっていた ゆうじんたちも、けっこんにさいして あいてのかぞくから しんじられないような ことばをあびせられていた。「しさんのすくない しんぐるまざーかていは ふたんがおおきい」「こううつざいを のんでいるこなんて いえにつれてくるな」。それぞれのじじょうによって はっせられたことばはことなるが、「よめ」としてのかちを ねぶみされ、ありのままのじぶんを きょひされていた。そのゆうじんたちはみな、じしんの そんげんのかいふくをもさくしながら ひとりかっとうしていた。こうしたげんじつに ちょくめんするなかで、けっこんという せいどにたいするぎもんは どんどん ふくらんでいった。それは、ひくつな あきらめではない。

 いちにんまえになることや、‟いせい”とせいかつすることの けじめとして、けっこんが つうかぎれいのようにされているが、だれとどのようにいきるかは してきなりょういきであり、だいさんしゃが くちをだせることではない。それがなぜ しゃかいてきちいと むすびつくのだろうか。また、けつえん・ちえんかんけいをきばんとする こみゅにてぃのけっそくのために、けっこんのじゅうようせいが さけばれることもあるが、そのけっそくに ほんとうに こんいんかんけいが ひつようなのかは じゅうぶんに といなおされていない。さまざまなたちば・じじょうによって ほうりつこんができない、そもそもみとめられていないひとびとが そんざいするにも かかわらず、おいてきぼりにしたまま、けっこんをつうじて しゃかいやこみゅてぃからの しょうにんをうけ、けっこんにふずいする しゃかいせいどを きょうじゅしていいのだろうか。

 わたしは ほうりつこんをしたひとと そうではないひととのあいだに、あらたなたいりつかんけいを つくろうとしているわけではない。ただ、わたしたちをぶんだんさせる しゃかいこうぞうの「わな」をみつけ、そのいみを ずらしながら、むりょくかしていくことは できるとおもう。それが、それぞれの いきづらさを かんわしていくことに つながっていくはずだ。たしゃのせつじつなせんたくを ただそんちょうすることに とどまらずに、じぶんじしんのせんたくを といなおすことから まずはじめたい。(せとそえりな●きょうとだいがくだいがくいん はかせこうきかてい いみん・なんみんけんきゅう)

●げっかんいお2017ねん5がつごうにけいさい

illustration_そんみょんふぁ