【エッセイ・私たちの声】「常識」という鎖から子どもたちを解放するには


 私がウリハッキョ(朝鮮学校)で教員をしていた時のことである。

 「分けた方が何かと便利だから、体育の時間とか分ける必要あるし……」。しどろもどろで答えたこの言葉が、友人たちに、なぜ学校の出席番号が男女混合でなく男女別で、男子が先である必要があるの?と聞かれた時に、ようやく絞り出したものだ。他の学校では男女混合の出席番号にする制度を取りいれ始めているのに、なぜあなたの学校はいまだその取り組みに無関心なの?と尋ねられ、恥ずかしながら、初めてその制度について考えた。

 それなりに問題意識を持っている方だと思っていた。しかし毎朝教室に持って入る出席簿にさえ、根深い問題があることに全く気付いていなかった。次の日、出席を呼びながら、この枠組みを「当たり前」として育つことが子どもたちに与える影響を思い、私もそこに加担しているのだと心が重くなった。

 ある日、LGBTに関する映画を子どもたちに紹介した。すると一人の生徒が、「僕は絶対にそういう偏見持ちません!」と熱っぽく話してくれた、それはとてもいいことね、と返した矢先、「〇〇、オカマみたいなリアクションするな!」という言葉が、さっきと全く同じ声で聞こえてきた。物静かで、何を言われても穏やかに笑っていた、そう言われた生徒は、所作もやわらかく、丁寧だった、が故に、少し乱暴なくらいが「男らしい」と思っている子どもたちから、時折そのような言葉の暴力を受けた。それをとがめるたび、返ってくる反応は「男やったらそれぐらいで傷つきませんよ、冗談じゃないですか」というものだった。

 子どもたちに悪気はない、ないから、余計に怖かった。数人の子どもが眉をしかめていたが、そのような違和感に気づく子どもがいる反面、その発言に何の注意もしない(できない)大人たちがたくさんいたのも事実だった。

 私自身、「子どもを産んだこともない女性教員は、一人前じゃない」と男性教員に目の前で言われたことがある。その言葉の暴力性に誰も気づいていないことに驚くとともに、なぜに私は「女性」であるという事実一つで、すでに違うスタートラインに立たされなくてはいけないのか納得がいかなかった。そして、それ以外の生き方を否定するわけではないがと前置きをしたあと、「いい男性と結婚して、早く子どもを産むことが幸せだよ」と諭される、やわらかく明らかな否定である。

 学校という場所が、「男」と「女」を明確に区分し、個々の役割も性別によって規定することを当然としている限り、「男らしく/女らしく」という鎖から子どもたちを(大人たちも)解放することはできないだけでなく、がんじがらめの大人を増やしていくばかりである。目の前で様々に悩む子どもたちに、ありのままのあなたでいいんだよ、と伝える時、その「ありのまま」さえも多分に大人たちの「常識」によって作られているという責任の重さを、私たちはもう一度考えるべきではないか。(李明淑●会社員)

●月刊イオ2017年9月号に掲載

illustration_宋明樺


 わたしが うりはっきょ(ちょうせんがっこう)で きょういんを していたときのことである。

 「わけたほうが なにかとべんりだから、たいいくの じかんとか わける ひつようあるし……」。しどろもどろで こたえた このことばが、ゆうじんたちに、なぜがっこうの しゅっせきばんごうが だんじょこんごうでなく だんじょべつで、だんしが さきである ひつようがあるの?と きかれたときに、ようやく しぼりだしたものだ。ほかのがっこうでは だんじょこんごうの しゅっせきばんごうにする せいどを とりいれはじめているのに、なぜあなたのがっこうは いまだ そのとりくみに むかんしんなの?と たずねられ、はずかしながら、はじめて そのせいどについて かんがえた。

 それなりに もんだいいしきを もっているほうだと おもっていた。しかし まいあさ きょうしつに もってはいる しゅっせきぼにさえ、ねぶかいもんだいが あることに まったく きづいていなかった。つぎのひ、しゅっせきを よびながら、このわくぐみを「あたりまえ」として そだつことが こどもたちに あたえる えいきょうを おもい、わたしも そこに かたんしているのだと こころが おもくなった。

 あるひ、LGBT(えるじーびーてぃー)にかんする えいがを こどもたちに しょうかいした。すると ひとりのせいとが、「ぼくは ぜったいに そういう へんけんもちません!」と ねつっぽく はなしてくれた、それは とてもいいことね、とかえしたやさき、「〇〇、おかまみたいな りあくしょんするな!」ということばが、さっきとまったく おなじこえで きこえてきた。ものしずかで、なにを いわれても おだやかに わらっていた、そういわれた せいとは、しょさも やわらかく、ていねいだった、がゆえに、すこし らんぼうなくらいが「おとこらしい」と おもっている こどもたちから、ときおり そのような ことばのぼうりょくを うけた。それをとがめるたび、かえってくるはんのうは「おとこやったら それぐらいで きずつきませんよ、じょうだんじゃないですか」というものだった。

 こどもたちに わるぎはない、ないから、よけいに こわかった。すうにんの こどもが まゆを しかめていたが、そのような いわかんにきづく こどもがいる はんめん、そのはつげんに なんのちゅういもしない(できない)おとなたちが たくさんいたのも じじつだった。

 わたしじしん、「こどもを うんだこともない じょせいきょういんは、いちにんまえじゃない」と だんせいきょういんに めのまえで いわれたことがある。そのことばの ぼうりょくせいに だれも きづいていないことに おどろくとともに、なぜにわたしは「じょせい」であるという じじつひとつで、すでに ちがう すたーとらいんに たたされなくては いけないのかが なっとくが いかなかった。そして、それいがいの いきかたを ひていするわけではないがと まえおきをしたあと、「いいだんせいと けっこんして、はやくこどもを うむことが しあわせだよ」と さとされる、やわらかく あきらかな ひていである。

 がっこうという ばしょが、「おとこ」と「おんな」をめいかくに くぶんし、ここのやくわりも せいべつによって きていすることを とうぜんとしているかぎり、「おとこらしく/おんならしく」という くさりから こどもたちを(おとなたちも)かいほうすることは できないだけでなく、がんじがらめの おとなを ふやしていくばかりである。めのまえで さまざまに なやむ こどもたちに、ありのままの あなたでいいんだよ、と つたえるとき、その「ありのまま」さえも たぶんに おとなたちの「じょうしき」によって つくられているという せきにんの おもさを、わたしたちは もういちど かんがえるべきではないか。(り・みょんすく●かいしゃいん)

●げっかんいお2017ねん9がつごうにけいさい

illustration_そんみょんふぁ