2018年連続講座第3回報告「障害とセクシュアリティを考える」


** ふたつめは かんじ なし **

 

 9月11日、井芹真紀子さんを迎えて「障害とセクシュアリティを考える」というタイトルで(2018年連続講座「だれいき。あなたとわたしの<性>を考える」第3回)、お話をうかがいました。当日の簡単な報告と参加者の感想を共有させていただきます。ぜひご一読ください!

 

 

【報告】

 

 9月11日、井芹真紀子さんをお招きし、【だれいき。あなたとわたしの〈性〉を考える】の第3回講座「障害とセクシュアリティを考える」を飯田橋・東京市民活動ボランティアセンターにて開催し、42名が参加しました。

 

井芹真紀子さんのプロフィールは以下。

 

○いせり・まきこ

 

1985年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。国際基督教大学ジェンダー研究センター助手。駒澤大学、中央大学ほか非常勤講師。専門はフェミニズム/クィア理論、ディスアビリティ・スタディーズ、表象文化論。近年の「ダイバーシティ」称揚におけるマイノリティ表象とその問題性について研究をしています。

 

 

 井芹さんは自己紹介をしたあと、自身が研究するディスアビリティ・スタディーズについて、クィア理論との共通点についても言及しながら解説してくれました。ディスアビリティ・スタディーズとは、日本では「障害学」と訳されることが多い学問領域。障害者ら自身が展開してきた運動から生まれたものです。

 

 ディスアビリティ・スタディーズとクィア理論の共通点のひとつは、研究の「対象」をマイノリティ(障害者や性的少数者)側ではなく、マジョリティ側(健常主義や異性愛規範)に据えたことだと井芹さんは言います。

 

 「特定の身体的、知的、精神的な状態が障害の原因なのではなく、むしろ特定の存在を生活しやすくすることで別の特定な存在を無力化している、そこに生じている不利益こそがディスアビリティ(障害)なのであって、そういった社会の側こそを問い直すべきだというのがディスアビリティ・スタディーズです」。井芹さんは、改めて分かりやすく説明してくれました。

 

 また、これらのマイノリティの運動や理論には、マジョリティ側(健常主義や異性愛規範)を問題化すると同時に、それに向かう姿勢は「私たちだって普通だ」という風に同化を主張するものではなく、「私はあなたたちとは違う、だからといって差異を理由とした不公正、不正義を私たちは許さない」という、差異を主張しつつ同化を拒否する力強い側面があることものべました。

 

 このようにマジョリティ側の体制に注目をしたときに、健常主義と異性愛規範がすでにタッグを組んで、不可分なものとして機能していることについて、井芹さんは解説しました。出てきたキーワードは「ダイバーシティ」です。

 

 ダイバーシティというと、近年の日本でも、女性の社会進出やLGBTをはじめとする性的少数者、障害者、外国人なども幅広く社会に受け入れようという言説として注目されるようになってきており、それはしばしば、「カラフル」「楽しそう」「寛容な社会」「先進的である」「クリエイティビティ」など、ポジティブなイメージを伴って広まっているように思います。

 

 井芹さんは、これまで主流社会で不可視化されてきたマイノリティを可視化するという側面では一定の効果を持っていると思うと話しつつ、ただしハッピーな話だけではないと注意を呼びかけます。

 

 そもそもダイバーシティはビジネス用語でもあり、経営学や経営理論の分野で広く用いられてきたもの。ダイバーシティ経営とはもともと、人材の多様性によって競争力を強化しイノベーションを起こすという、“生産性”の話に関わってくるものだと話しました。

 

 井芹さんは続けて、ダイバーシティ条例(渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例)を掲げている渋谷区の長谷部健区長の発言をいくつか引用。「LGBTの人とかもうまく活用できたら」「人権人権と強く主張するよりも、それが普通のことだという雰囲気にしたい」「実際に会ってみたら普通の人だった、…LGBTも障害者も嫌なやつも良いやつも全部一緒」など、既存の不均衡な権力構造を不問にし、差異を個人化する語りに疑問を投げかけました。

 

 利益をもたらす特定のマイノリティにのみ承認を与え、そこから外れる存在に対しては積極的に排除する状況は、すでに様々な人が指摘しているとのこと。「綺麗な彩りとなってくれるマイノリティだけを取り込む、そういうやり方が、差異の政治を無力化してしまう」という言葉が印象的でした。

 

 このような背景にはネオリベラリズム体制(新自由主義)があるそうです。そこでポイントとなるのは「フレキシビリティ(柔軟性)」。柔軟であること、しなやかであることが要請されていく社会体制が関係していると井芹さんは話しました。

 

 井芹さんは、この体制は健常主義と異性愛規範にも当てはまるんじゃないかと指摘しているアメリカの研究者の言葉も引用しつつ、フレキシビリティという言葉には2重の意味があることについてのべました。

 

 マジョリティにとってフレキシビリティは、人や物事を都合よく柔軟に動かせる力になり、一方でマイノリティにとってのフレキシビリティは、そのような要請に柔軟に対応できる従順さになってしまいます。とても不均衡な力関係の中で、このような二重性が生まれていると話していました。そのため、マイノリティの中でも「この人は良い、この人は使える」という選別的な発想になり、そこから切り落とされる存在が常に出てくるのだと強調しました。

 

 井芹さんは最後に、マイノリティの選別的包摂により、マジョリティ社会の抑圧構造は、改善されていくよりもむしろ温存されているという話をしました。「身近なことで言えば、家の形や道路の形といった、差別や排除を生み出す健常主義社会の体制そのものにはまったく手を加えない状態で、そこに適応し参入できる“フレキシブル”なマイノリティのみをポジティブなイメージで可視化する」。

 

 そのことが、マジョリティによる抑圧や不公正を問わずに済んでしまう事態につながり、主流社会が生み出している不利益の解消に至らないのだと危惧していました。

 

 2012年のロンドンパラリンピックでは、「スーパーヒューマンズ」と題して、義足や義手、車いすのアスリートたちが華々しく、かっこよく演出されて取り上げられ、社会的に大きな反響を呼びました。しかし、同時期にイギリスでなにが起こっていたかと言うと、緊縮財政によって福祉や医療に充てる国家予算が著しく削られていたそうです。生活保護者へのバッシングが高まり、障害年金の受給者叩きをする記事も多く見られました。似たような状況がすでに日本でも始まっていると井芹さんは喚起します。

 

 井芹さんは、マイノリティがポジティブな形で可視化されるとき、誰が誰のためにどのような形で包摂されているのか意識的である必要があること、新たな形の健常主義、同性愛嫌悪が強化されている現状が生まれていることをのべ、発表を終えました。

 

 質疑応答では、「精神障害や知的障害の場合にはどういう問題が生じてきているのか」といった質問がいくつかありました。これに対して井芹さんは、今回の講座での議論では身体障害を前提とした部分が確かにあり、その他の障害をめぐって現在生じている問題について十分に触れられていないことを反省している旨をのべました。

 

 質疑応答のあとに性差別撤廃部会の李杏理さんが感想とまとめを述べました。李さんは、これまでは民族や障害、性別やセクシュアリティといった生まれながらの属性によって特定の人々が軽視され安く買い叩かれてきたが、新自由主義とダイバーシティ称賛の影響で、マイノリティの中でも能力によって判断されるようになったと話しました。

 

 それについて、▼学歴主義や競争主義、さらに生産性や効率性と言った健常主義が、能力の“基準”になっていること、▼健常者か否かに加え、日本人か否か、男か女か、経済基盤があるか、日本語ネイティブかなどスタートラインからしてすでに障壁があること、▼生存の保障や、いきいきと生きるに値する存在が、社会によって振り分けられている、といった問題点を挙げました。

 

 「企業や社会の要望に応えられなかった場合、それは個人の努力不足とか自己責任にされてしまう。マイノリティであろうが、環境に打ち勝った人がいるんだから、頑張った者勝ちだということで、実際の障壁を見えなくする効果をも持ってしまうと思った」。障害とセクシュアリティ、そこに民族という視点もプラスして感想をのべていました。

 

【参加者の感想】

 

○ネオリベラリズムが蔓延し、マジョリティの寛容さアピールに利用され、財政状況を覆いかぶすように、社会側ではなく個人によって解消しようとし、問題や不公正を覆い隠してしまう現状を鮮やかに解きほぐしてくださり本当に勉強になりました。

 

◯「ダイバーシティ」という耳障りのよい言葉、何か感じる違和感の理由がやっと分かったと思いました。また、自分自身を振り返り、フレキシビリティに翻弄されてきたのにそれを受け入れてきてしまったということに気づくことができました。

 

○何も世界が変わらないのに適応できることを求められるのがダイバーシティっていえるのかなって悲しくなりました。差異のある自分を主張しながら「自分は自分」と生きられるようになりたいです。どんな人でも一緒に生きられる、目に見えない苦しさも一緒に生きられる世界を望みます。

 

――― いか かんじ なし ―――

 

 

 9がつ11にち、いせりまきこさんを むかえて「しょうがいと せくしゅありてぃを かんがえる」という たいとるで(2018ねん れんぞくこうざ「だれいき。あなたとわたしの〈せい〉をかんがえる」だい3かい)、おはなしを うかがいました。とうじつの かんたんなほうこくと さんかしゃのかんそうを きょうゆうさせていただきます。ぜひごいちどく ください!

 

 

【ほうこく】

 

 9がつ11にち、いせりまきこさんを おまねきし、【だれいき。あなたとわたしの〈せい〉をかんがえる】のだい3かいこうざ「しょうがいと せくりゅありてぃを かんがえる」を いいだばし・とうきょうしみんかつどうぼらんてぃあせんたーにて かいさいし、42めいが さんかしました。

 

いせりまきこさんの ぷろふぃーるは いか。

 

○いせり・まきこ

 

1985ねんうまれ。とうきょうだいがくだいがくいん そうごうぶんかけんきゅうか はかせかていまんきたいがく。こくさいきりすときょうだいがく じぇんだーけんきゅうせんたー じょしゅ。こまざわだいがく、ちゅうおうだいがくほか ひじょうきんこうし。せんもんは ふぇみにずむ/くぃありろん、でぃすあびりてぃ・すたでぃーず、ひょうしょうぶんかろん。きんねんの「だいばーしてぃ」しょうようにおける まいのりてぃひょうしょうと そのもんだいせいについて けんきゅうをしています。

 

 

 いせりさんは じこしょうかいをしたあと、じしんが けんきゅうする でぃすあびりてぃ・すたでぃーずについて、くぃありろんとの きょうつうてんについても げんきゅうしながら かいせつしてくれました。でぃすあびりてぃ・すたでぃーずとは、にほんでは「しょうがいがく」と やくされることが おおい がくもんりょういき。しょうがいしゃらじしんが てんかいしてきたうんどうから うまれたものです。

 

 でぃすあびりてぃ・すたでぃーずと くぃありろんの きょうつうてんのひとつは、けんきゅうの「たいしょう」を まいのりてぃ(しょうがいしゃや せいてきしょうすうしゃ)がわではなく、まじょりてぃがわ(けんじょうしゅぎや いせいあいきはん)に すえたことだと いせりさんは いいます。

 

 「とくていの しんたいてき、ちてき、せいしんてきな じょうたいが しょうがいのげんいんなのではなく、むしろ とくていのそんざいを せいかつしやすくすることで べつのとくていなそんざいを むりょくかしている、そこにしょうじている ふりえきこそが でぃすあびりてぃ(しょうがい)なのであって、そういった しゃかいのがわこそを といなおすべきだというのが でぃすあびりてぃ・すたでぃーずです」。いせりさんは、あらためて わかりやすくせつめいしてくれました。

 

 また、これらの まいのりてぃのうんどうや りろんには、まじょりてぃがわ(けんじょうしゅぎや いせいあいきはん)を もんだいかすると どうじに、それにむかうしせいは「わたしたちだって ふつうだ」というふうに どうかをしゅちょうするものではなく、「わたしは あなたたちとはちがう、だからといって さいをりゆうとした ふこうせい、ふせいぎを わたしたちはゆるさない」という、さいをしゅちょうしつつ どうかをきょひする ちからづよい そくめんがあることも のべました。

 

 このように まじょりてぃがわの たいせいに ちゅうもくをしたときに、けんじょうしゅぎと いせいあいきはんが すでに たっぐをくんで、ふかぶんなものとして きのうしていることについて、いせりさんは かいせつしました。でてきたきーわーどは「だいばーしてぃ」です。

 

 だいばーしてぃというと、きんねんのにほんでも、じょせいのしゃかいしんしゅつや えるじーびーてぃを はじめとする せいてきしょうすうしゃ、しょうがいしゃ、がいこくじんなども はばひろく しゃかいにうけいれようという げんせつとして ちゅうもくされるようになってきており、それはしばしば、「からふる」「たのしそう」「かんようなしゃかい」「せんしんてきである」「くりえいてぃびてぃ」など、ぽじてぃぶないめーじをともなって ひろまっているように おもいます。

 

 いせりさんは、これまで しゅりゅうしゃかいで ふかしかされてきた まいのりてぃを かしかするという そくめんでは いっていのこうかを もっているとおもうとはなしつつ、ただしはっぴーなはなしだけではないと ちゅういをよびかけます。

 

 そもそも だいばーしてぃとは びじねすようごでもあり、けいえいがくや けいえいりろんのぶんやで ひろくもちいられてきたもの。だいばーしてぃけいえいとは もともと、じんざいのたようせいによって きょうそうりょくをきょうかし いのべーしょんをおこすという、”せいさんせい”のはなしに かかわってくるものだと はなしました。

 

 いせりさんは つづけて、だいばーしてぃじょうれい(しぶやく だんじょびょうどうおよび たようせいを そんちょうする しゃかいをすいしんする じょうやく)をかかげている しぶやくの はせべけんくちょうの はつげんを いくつかいんよう。「えるじーびーてぃのひととかも うまくかつようできたら」「じんけんじんけんと つよくしゅちょうするよりも、それがふつうのことだという ふんいきにしたい」「じっさいにあってみたら ふつうのひとだった、…えるじーびーてぃも しょうがいしゃも いやなやつもいいやつも ぜんぶいっしょ」など、きぞんの ふきんこうな けんりょくこうぞうを ふもんにし、さいをこじんかするかたりに ぎもんをなげかけました。

 

 りえきをもたらす とくていのまいのりてぃにのみ しょうにんをあたえ、そこからはずれる そんざいにたいしては せっきょくてきにはいじょする じょうきょうは、すでにさまざまなひとが してきしているとのこと。「きれいないろどりとなってくれる まいのりてぃだけをとりこむ、そういうやりかたが、さいのせいじを むりょくかしてしまう」ということばが いんしょうてきでした。

 

 このようなはいけいには ねおりべらりずむたいせい(しんじゆうしゅぎ)があるそうです。そこでぽいんととなるのは「ふれきしびりてぃ(じゅうなんせい)」。じゅうなんであること、しなやかであることが ようせいされていく しゃかいたいせいが かんけいしていると いせりさんは はなしました。

 

 いせりさんは、このたいせいは けんじょうしゅぎと いせいあいきはんにも あてはまるんじゃないかと してきしている あめりかのけんきゅうしゃのことばも いんようしつつ、ふれきしびりてぃということばには にじゅうのいみがあることについて のべました。

 

 まじょりてぃにとって ふれきしびりてぃは、ひとやものごとを つごうよくじゅうなんに うごかせるちからになり、いっぽうで まいのりてぃにとっての ふれきしびりてぃは、そのようなようせいに じゅうなんにたいおうできる じゅうじゅんさになってしまいます。とてもふきんこうな ちからかんけいのなかで、このような にじゅうせいが うまれているとはなしていました。そのため、まいのりてぃのなかでも「このひとはいい、このひとはつかえる」という せんべつてきな はっそうになり、そこからきりおとされる そんざいが つねにでてくるのだと きょうちょうしました。

 

 いせりさんはさいごに、まいのりてぃの せんべつてきほうせつにより、まじょりてぃしゃかいの よくあつこうぞうは、かいぜんされていくよりも むしろおんぞんされている というはなしをしました。「みぢかなことでいえば、いえのかたちや どうろのかたちといった、さべつやはいじょを うみだす けんじょうしゅぎしゃかいの たいせいそのものには まったくてをくわえないじょうたいで、そこにてきおうし さんにゅうできる ”ふれきしぶる”な まいのりてぃのみを ぽじてぃぶないめーじで かしかする」。

 

 そのことが、まじょりてぃに よる よくあつや ふこうせいを とわずにすんでしまう じたいにつながり、しゅりゅうしゃかいが うみだしている ふりえきのかいしょうに いたらないのだと きぐしていました。

 

 2012ねんの ろんどんぱらりんぴっくでは、「すーぱーひゅーまんず」とだいして、ぎそくや ぎしゅ、くるまいすの あすりーとたちが はなばなしく、かっこよくえんしゅつされて とりあげられ、しゃかいてきに おおきな はんきょうをよびました。しかし、どうじきに いぎりすで なにがおこっていたかというと、きんしゅくざいせいによって ふくしや いりょうにあてる こっかよさんが いちじるしく けずられていたそうです。せいかつほごしゃへの ばっしんぐがたかまり、しょうがいねんきんの じゅきゅうしゃたたきをする きじも おおくみられました。にたようなじょうきょうが すでに にほんでもはじまっていると いせりさんは かんきします。

 

 いせりさんは、まいのりてぃが ぽじてぃぶなかたちで かしかされるとき、だれがだれのために どのようなかたちで ほうせつされているのか いしきてきである ひつようがあること、あらたなかたちの けんじょうしゅぎ、どうせいあいけんおが きょうかされている げんじょうが うまれていることをのべ、はっぴょうをおえました。

 

 しつぎおうとうでは、「せいしんしょうがいや ちてきしょうがいのばあいには どういうもんだいが しょうじてきているのか」といったしつもんが いくつかありました。これにたいして いせりさんは、こんかいのこうざでの ぎろんでは しんたいしょうがいを ぜんていとしたぶぶんが たしかにあり、そのたの しょうがいをめぐって げんざいしょうじているもんだいについて じゅうぶんに ふれられていないことを はんせいしているむねを のべました。

 

 しつぎおうとうのあとに せいさべつてっぱいぶかいの りへんりさんが かんそうと まとめをのべました。りさんは、これまでは みんぞくやしょうがい、せいべつやせくしゅありてぃといった うまれながらの ぞくせいによって とくていのひとびとが けいしされ やすくかいたたかれてきたが、しんじゆうしゅぎと だいばーしてぃしょうさんのえいきょうで、まいのりてぃのなかでも のうりょくによって はんだんされるようになったとはなしました。

 

 それについて、▼がくれきしゅぎや きょうそうしゅぎ、さらにせいさんせいや こうりつせいといった けんじょうしゅぎが、のうりょくの ”きじゅん”になっていること、▼けんじょうしゃかいなかにくわえ、にほんじんかいなか、おとこかおんなか、けいざいきばんがあるか、にほんごねいてぃぶか など すたーとらいんからしてすでに しょうへきがあること、▼せいぞんのほしょうや、いきいきと いきるにあたいするそんざいが、しゃかいによって ふりわけられている、といった もんだいてんをあげました。

 

 「きぎょうや しゃかいの ようぼうにこたえられなかったばあい、それはこじんの どりょくぶそくとか じこせきにんにされてしまう。まいのりてぃであろうが、かんきょうにうちかったひとが いるんだから、がんばったものがちだということで、じっさいの しょうへきを みえなくするこうかをも もってしまうとおもった」。しょうがいと せくしゅありてぃ、そこにみんぞくという してんもぷらすして かんそうを のべていました。

 

【さんかしゃの かんそう】

 

○ねおりべらりずむが まんえんし、まじょりてぃの かんようさ あぴーるに りようされ、ざいせいじょうきょうを おおいかぶすように、しゃかいがわ ではなく こじん によって かいしょう しようとし、もんだいや ふこうせいを おおいかくしてしまう げんじょうを あざやかに ときほぐして くださり ほんとうに べんきょうに なりました。

 

◯「だいばーしてぃ」という みみざわりの よい ことば、なにか かんじる いわかんの りゆうが やっと わかったと おもいました。また、じぶんじしんを ふりかえり、ふれきしびりてぃに ほんろう されてきたのに それを うけいれて きてしまったと いうことに きづくことが できました。

 

○なにも せかいが かわらないのに てきおう できることを もとめられるのが だいばーしてぃって いえるのかなって かなしく なりました。さいの ある じぶんを しゅちょう しながら 「じぶんは じぶん」と いきられる ように なりたいです。どんな ひとでも いっしょに いきられる、めに みえない くるしさも いっしょに いきられる せかいを のぞみます。