▼内容の振り返り
今回の講座は、①第1~4回の振り返り、②「
①第1~4回の振り返り
金真美さん(会員、朝鮮大学校・文学歴史学部教員)と李イスル(
金真美さんは、
李イスルさんは、この間部会に積極的に参加してきたが、
②「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果概要発表
金優綺さんから、回答者の属性(回収した150名中、10~
実際に回答者が記入してくれた「セクハラだと思う言動の経験」
「早く結婚しろと冗談で言われた」
「男性陣の焼き肉を焼かせられた。
「容姿のことを会う度に言われる。
「(お前は)女みたいだな」と言われた」
DVと思う言動の経験については、
「以前付き合っていた恋人から(カ)(キ)
「お金を貸しても返ってこなかった(何度言っても)」
「
「どんな意見を言っても『そういうとこが○○はダメなんだよ」
などが自由回答で記入されていました。さらに、
「大事な役割は基本的に男性が任されること。
「職場で、
「黒や紺色が好きで、いつもそのような色の服装をし、
同性愛者、バイであることを匂わせる発言、
「力仕事はすべて男の仕事。弱々しい態度を取ると、
「職場の意思決定機関に女性が少なく、
セクハラやDVが性暴力という認識が無いに等しく、
こちらも消耗させられるのを回避するために沈黙や笑顔でスルーし
などなど、たくさんの回答がありました。
(本アンケート結果については、今後、
③公開討論「ジェンダーの視点からみる同胞社会」
公開討論には、李全美さん(会員、在日本朝鮮人医学協会専従)、
まず、
李全美さんは、30代で結婚していないシングルの立場から、
白凛さんは、結婚・子育てを行っている立場から、出産・
金成樹さんは、四人きょうだいの末っ子長男として幼い頃から「
会場からは、子どもを送っている幼稚園ですでに「
☆:…:☆寄せられた感想から☆:…:☆
▼自分はジェンダーからだけではないですが、
これから、今度は自分が、アウトプットには力が必要ですが、
勇気をもらいました。それから、
▼
組織内部から反省が生まれ良い方向に進むことは中々難しいと思う
もっと組織と外部が意見交換できる場があればいいなと思いました
▼同胞社会の中で自分がマジョリティであったこと。同じ時間・
▼全体の雰囲気としては一体感があったと思う。
パネラーのお三方がご自身のパーソナルな経験や思いについて赤裸
▼(アンケートで)至る所に男女の意識の差が見てとれた。
▼アンケートの結果を見て自分でも気付かされたのが、セクハラ・
▼나의 체험에서 어느 선생님께서 마지막에 한마리 하실 때 일군을 한다면 계속해야 한다. 녀동무들은 결혼하면 그만둘수도 있지만 하는 말을 하셨는데 그것에 참 모순을 느꼈습니다.
재일조선인사회를 지키는데 남편이 일군을 하고 안해는 그 남편을 支える라는 굳어진 생각을 가진 사람도 많다고 생각합니다. 경제적사정으로 어느 한쪽이 돈을 벌수 있는 직업을 해야 한다고 해도 함께 평등한 위치에 서서 토의해야 할 문제라고 생각합니다.
▼在日同胞社会では”当り前”と思われているような「ささいな」
▼今回の公開討論を通して、<ジェンダー>
現在、日本社会で”民族”の痛みを共有する同胞社会を、
今後、在日朝鮮人として<ジェンダー>
▼「ジェンダー(笑)」という場面に最近よくいあわせ、
▼様々な立場で経験してきたことも違う人たちの話を聞いて、
▼
ジェンダーについてこのように自由に語ることが出来る場が今まで
▼アンケート結果概要のP11以降、
在日同胞の男性からまなざされる「女らしさ」
▼今後の改善策として、
▼(※日本人参加者から)
課題(ジェンダーに関しては)、
民族差別と性差別、
▼在日同胞社会の性差別の問題を内部の問題だけでとらえずに、
▼
上から目線に陥らないためにも日々の生活のなかで、
▼自由回答の部分で様々な意見が書かれており、
▼同胞社会において男女の役割がとても明確にされており、
同胞社会がより平等で解放された社会になるためには、
私自身もまだまだ理解が少なかったり不勉強で、
*2014年連続講座の内容及び「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果については、下記書籍にてすべてお読みいただけます*
『だれもがいきいきと生きられる社会のために 性差別撤廃部会連続講座の記録&「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果報告書』
▼ないようのふりかえり
こんかいのこうざは、①だい1~4かいのふりかえり、②「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかがいようはっぴょう、③こうかいとうろん「じぇんだーのしてんからみるどうほうしゃかい」、というこうせいでおこないました。
①だい1~4かいのふりかえり
きむ・ちんみさん(かいいん、ちょうせんだいがっこう・ぶんがくれきしがくぶきょういん)と り・いする(かいいん、ぎんざみはらばしほうりつじむしょすたっふ)さんが だい1~4かいのこうざないようをふりかえりながら、これまでさんかされながらのかんそうをのべてくださいました。
きむ・ちんみさんは、ふみつけられてきたざいにちちょうせんじんがだれかをふみつけてはいなかったか、しんにかいほうされるいきかたをこのこうざをとおしてかんがえさせられたということ、きょういくげんばにつくものとして、ここにいるみなさまとともに、かこせいさんもんだいかいけつやそこくとういつ、せいさべつのないどうほうしゃかいのためにつねにじしんのみをたたかうがわにおいてまいしんしていきたい、とはなされました。
り・いするさんは、このかんぶかいにせっきょくてきにさんかしてきたが、ぶかいへのさんかがめんざいふにはならないということ、たとえばどうほうがひろくあつまるばしょでせいさべつてきなげんどうをみたときに、じぶんがなにをいえるのか、じっせんできるかどうかがじゅうようであること、ぶかいにさんかしながらも、たとえばせいべつやくわりぶんぎょうがひつようだとおもっているじんがいたらとてもかなしいが、そのようなこともきっちりかんがえたい、とはなされました。
②「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかがいようはっぴょう
きんうぎさんから、かいとうしゃのぞくせい(かいしゅうした150めいちゅう、10~30だいが9わり、じょせい51ぱーせんとだんせい48ぱーせんと、しょくしゅはだんたいしょくいん35ぱーせんと、かいしゃいん27ぱーせんと、がくせい23ぱーせんと…など)についてはっぴょうしたあと、それぞれのあんけーとこうもくについてじかんのゆるすはんいではっぴょうをしました。たとえば、「せくはらとおもうもの」や「DVとおもうもの」のせんたくしでまるをつけたかずをへいきんすると、じょせいがだんせいよりもひとついじょうおおくまるをつけていたことがわかりました。「DVとおもうもの」については、ぜんたいてきなけいこうとして、せいしんてきぼうりょく・せいてきぼうりょくを「DVとおもう」というかいとうが、しんたいてきぼうりょくを「DVとおもう」かいとうよりもすくないことがわかりました。
じっさいにかいとうしゃがきにゅうしてくれた「せくはらだとおもうげんどうのけいけん」については、
「はやくけっこんしろとじょうだんでいわれた」
「だんせいじんのやきにくをやかせられた。おんなのくせにそんなにべんきょうしてどうする、はやくよめにいけといわれた。けっこんしないにんげんは『かたわ』だといわれた」
「ようしのことをあうたびにいわれる。のみかいのばでしもねたをいわれこちらのはんのうをたのしまれる」
「(おまえは)おんなみたいだな」といわれた」
DVとおもうげんどうのけいけんについては、「いぜんつきあっていたこいびとから(か)(き)にあたるこういをされていたことがある」
「おかねをかしてもかえってこなかった(なんどいっても)」
「いぜんつきあっていたこいびとにたいしてせいこういやそれにじゅんずるこういをいやがっているにもかかわらずようきゅうしたことがある」
「どんないけんをいっても『そういうとこが○○はだめなんだよ」などといわれてじしんをうばわれた。『あいしてるから』『どうせじぶんはだめなんだ、○○もじぶんからにげていくんだよね』とうのことばでそくばくされた。せいこういをきょうようされ、きょひするとあばれられた」
などがじゆうかいとうできにゅうされていました。さらに、せいかつのなかでけいけんしたせいさべつについては、
「だいじなやくわりはきほんてきにだんせいがまかされること。じょせいだからということだけで、のうりょくがあってもなかなかやくしょくをもらえない」
「しょくばで、つかったしょっきをあらうのはじょせいというのがしぜんにきまっている。けっこんすると『いつまでしごとつづけるの?』ときかれる」
「くろやこんいろがすきで、いつもそのようないろのふくそうをし、めんずものとうでそろえると、おとこっぽいだのおんならしくしろだのまわりにいわれた。かみをべりーしょーとにしたときもまわりにもうやるなといわれた。どうせいあいしゃ、ばいであることをにおわせるはつげん、こうどうをするときもちわるいといわれた」
「ちからしごとはすべておとこのしごと。よわよわしいたいどをとると、おとこらしくないとからかわれる。どうせいあいしゃへのべっし。わらいのねたにする。」
「しょくばのいしけっていきかんにじょせいがすくなく、いしけっていかていにじょせいがしゅたいてきにかかわれない。じょせいたちはあんもくのりょうかいでちんもくさせられており、つねにこうほうしえんのやくわりをさせられる。これらについてこえをあげたとしても、『うるさいおんな』というめでみくだされ、むし・はいじょされる。
せくはらやDVがせいぼうりょくというにんしきがないにひとしく、わらいのねたにされておわる。『じぶんはおちゃを淹れたことがある』『さいきんこどもをおふろにいれている』など、ひくいれべるでせいさべつのもんだいをとらえられてわかったふりをされる。
こちらもしょうもうさせられるのをかいひするためにちんもくやえがおでするーしようとするが、そうしたらしたであとでこえをあげなかったじぶんをせめてしまう」などなど、たくさんのかいとうがありました。
(ほんあんけーとけっかについては、こんご、よりおおくのいけんをはんえいしてさっしとしてまとめたいとおもっています。さいかぶに、いけんこうかんかいのおしらせをきさいしています。ぜひおおくのかたのごさんかをおまちしています)
③こうかいとうろん「じぇんだーのしてんからみるどうほうしゃかい」
こうかいとうろんには、り・ちょんみさん(かいいん、ざいにほんちょうせんじんいがくきょうかいせんじゅう)、ぺく・るんさん(かいいん、とうだいだいがくいんざいせき、ざいにちちょうせんじんびじゅつしけんきゅうせんこう)、きむ・そんすさん(かいいん、ちょうせんだいがっこう・ぶんがくれきしがくぶきょういん)がしゅつえんされました。
まず、こーでぃーねーたーのり・ちょんみさんがことしのれんぞくこうざのちらしのぜんぶんをよみあげながら こうかいとうろんをおこなうにあたってのもんだいいしきについてはつげんしました。そのご、それぞれが じこしょうかいをかねてじしんのもんだいいしきについてはつげんし、どういったときにいきぐるしさや、ぎゃくにかいほうかんをかんじるのかといったことについてもはつげんされました。
り・ちょんみさんは、30だいでけっこんしていないしんぐるのたちばから、おさないころからかんじていたせいさべつけいけん、そうれんそしきのなかだと、せっきょくてきにうごくひとでなければ、かめいするてきとうなだんたいがなくはいじょされてしまうのでは、というもんだいいしき、けっこんしていないことがおかしいとされるようなふうちょうへのおそれ、ふぇみにずむてきなはつげんをするとしゅういにかおいろをうかがわれてしまってぎゃくにきをつかってしまうこと、いっぽうでは「じぇんだーだからね(わらい)」「おまえもじぇんだーなの?」など、さべつにていこうすることをわらいにかえられることへのいきぐるしさ、しかしながらぶかいのばで、ひとのかちはせいべつやけっこん、ぱーとなーやこどもがいるかどうかではきまらないということをかくにんできたこと、こういうおもいをきょうゆうしてくれているひとがいるとおもうとかいほうをかんじること、そうじやおちゃくみをさせているひとはたくさんいるとおもうが、ひびのせいかつのなかで、じっせんしていけるか、おもいをきょうゆうしていけるかがだいじだとおもう、とはつげんされました。
ぺく・るんさんは、けっこん・こそだてをおこなっているたちばから、しゅっさん・こそだてがいかに ぐたいてきにたいへんなのかにふれながら(たとえばしゅっさんごにしゅっけつがいっかげつもつづくなど)、けっこん・しゅっさん・いくじがあたりまえのこととしていかにしあわせなものとして「しんぴか」され、ぐちもこぼしてはいけないようなふんいきがあること、じしんも「けっこんせずにいつまでべんきょうするの?」「こどもはいつ?」「ふたりめはいつ?」などととわれつづけたこと、けっこんかしごとかというにしゃたくいつをじょせいにせまるようなせかいをかえたい、どうほうのためのどうほうによるかじ・いくじだいこうさーびすがあればいいなとおもう、どうほうしゃかいのなかでほんとうにあたたかくにんしん・しゅっさん・いくじをみつめるようなしくみができればいいなとおもった、などなどはつげんされました。
きむ・そんすさんは、よにんきょうだいのすえっこちょうなんとしておさないころから「おとこらしさ」をつねにようきゅうされ、ちょうせんがっこうのぶかつどうでもだんしはさっかーぶなどとせんたくのよちがなかったこと、「おかま」「おとこらしくなくてきもちわるい」などさべつてきなはつげんをうけていやでたまらなかったこと、じぶんらしさをかくりつするまえにおとこらしさをきょうようされてきたとおもう、なによりもいやでつらかったのは、まわりがもとめるおとこらしさがいやなのに、そのすてれおたいぷをじぶんがめざしていたとかんじたときであったこと、げんざいはきょういんとして、がくせいのうちじょせいが7わりであっても はんちょうはだんせいときまっていることなど だんせいちゅうしんしゅぎのねぶかさについてなやんでいること、じぇんだーというがいねんをしって、ふらっとにはなせるしりあいをえて、いまはむかしよりはじぶんらしくいきられているとおもうこと、これからはきょういくしゃとしての・だんせいとしてのせきにんをかんじて、だんせいであるからこそせいさべつにNOといい、がくせいやどうほうがすこしでもかいほうされるようなじっせんをしていきたい、とはつげんされました。
かいじょうからは、こどもをおくっているようちえんですでに「おんなのこはかわいく、おとこのこはつよく」などのきょういくがなされていることへのふあんや、ざいにちちょうせんじんのれきしをかんがえたときに、にほんしゃかいからくりかえしおこなわれるぼうりょくのなかでだんせいちゅうしんてきなところがしこうされてきたというところがあること、ちょうせんがっこうでじょしせいとがちまちょごりをちゃくようすることがじょせいやくわりをおしつけているというげんろんへのぎもん、ざいにちちょうせんじんうんどうのだんけつのなかでもとめられたきはんのひとつがせいべつやくわりぶんぎょうであり、そういうなかでみおとされてきたのがじょせいのじんけんのもんだいであり、これはかふちょうせいにささえられていること、なにからはじめるかはみんなでかんがえていかねばならないが、かざあなをあけられるということをきょうのがくしゅうかいでかんじた、などのこえがありました。
☆:…:☆よせられたかんそうから☆:…:☆
▼じぶんはじぇんだーからだけではないですが、いきにくいしゃかいだとおもうことがおおくて、それをじぶんのせいだとせめたり、でもやっぱりちがうとおもっても、それをいえないじぶんをよけいにきらいになったりしていましたが、このこうかいとうろんのおかげで、まずおなじようにぎもんをもっているひとがいること、そして、しゃかいをかえようとほんきでがんばっているひとがいるとまたしることができました。
これから、こんどはじぶんが、あうとぷっとにはちからがひつようですが、がんばってはっしんしていかないと、むいしきのひとたちにきづいてはもらえないので、がんばらないととおもいました。
ゆうきをもらいました。それから、こんなあんけーとをしているということをどうほうしゃかいぜんたいとしてしるきかいがあったらいいなとおもいます。정말 고맙습니다(ちょんまる こまっすんみだ).
▼がくせいじだいにだんじょのやくわりぶんたんについてきづくことがほとんどなくいかになにもかんがえずにいきてきたのかをじっかん。あたりまえのようにきはんをうけいれてきたことへのはんせい。そしきないぶからはんせいがうまれよいほうこうにすすむことはちゅう々むずかしいとおもうので、そんせんにむかたがこのこうぎにでてもらいたいとおもういっぽうで、もっとがいぶのじぶんたちがぎもんをうりはっきょになげかけていきたいとおもいました。だいすきなうりはっきょだからこそ。
もっとそしきとがいぶがいけんこうかんできるばがあればいいなとおもいました。もっとうりはっきょ・そうれんをよくしたい、はなれていくどうほうをとりもどしたいから。
▼どうほうしゃかいのなかでじぶんがまじょりてぃであったこと。おなじじかん・ばしょをすごしたゆうじんのなかにもいきぐるしさをかんじるひとがおおかったのではないかとおもうと もうしわけなさをかんじるいっぽう、ここでもうしわけなさをながかんじたところでとうにんのくるしさはいちみりもけいげんされないんだし、なんどもいわれていたことですが、じっせんしていければとおもいます。
▼ぜんたいのふんいきとしてはいったいかんがあったとおもう。
ぱねらーのおさんかたがごじしんのぱーそなるなけいけんやおもいについてせきららにかたってくれたので、かいじょうからもせつせつとしたないようのとろがあったりと、ぜんたいがはつげんしゃのことばにおもいをはせながら、ぎろんをきょうゆうするばとなったとおもう。
▼(あんけーとで)いたるところにだんじょのいしきのさがみてとれた。おとこであることのせきにんをもっとかんがえなくちゃいけない。
▼あんけーとのけっかをみてじぶんでもきづかされたのが、せくはら・DVのにんていきじゅんにかんして しんたいてきなもの・ぼうりょくてきなものにばかりしょうてんをあてていたことです。
▼(ちょそんくる=ちょうせんもじ のぶぶん しょうりゃく)
▼ざいにちどうほうしゃかいでは”あたりまえ”とおもわれているような「ささいな」ことがらが、あるひとにとっては「いきにくさ」をもたらしているということを、あんけーとのけっかをみてはっけんすることがおおかったです。どうほうしゃかいをかえるためにこのあんけーとをどのようにつかうことができるのか、いろいろかんがえてみます。
▼こんかいのこうかいとうろんをとおして、<じぇんだー>のしてんからみえるどうほうしゃかいにある<いきにくさ>についてさいどかんがえることができました。そして、このようなもんだいいしきをもつひとが(まだかずはおおくはないですけれども)いるということを、このれんぞくこうざにさんかするなかで、はじめてしるようになりました。げんざい、にっぽんしゃかいで”みんぞく”のいたみをきょうゆうするどうほうしゃかいを、よりおおくのひとにとって”いきいきといきられるしゃかい”へと、かえていかなければならないとおもいました。こんご、ざいにちちょうせんじんとして<じぇんだー>のもんだいをどのようにかんがえていかなければならないのか、じしんのこたえをみつけていきたいです。
▼「じぇんだー(わらい)」というばめんにさいきんよくいあわせ、つくづくきずついていました。またあらたにたたかうぱわーもらいました!!
▼さまざまなたちばでけいけんしてきたこともちがうひとたちのはなしをきいて、じぶんじしんもしらないまにさべつしてきたのではないかとふりかえりました。こんかいのあんけーともとに、ひとつずつなにかこうどうにうつせたらよいなとおもいます。
▼わたしはやはりかえるだいいっぽとしてちょうせんがっこうにおけるきょういくがこうかてきなのではないかとかんがえております。
じぇんだーについてこのようにじゆうにかたることができるばがいままでなかったのに、いまはできているということが、こんごのあたらしいてんぼうをみいだすいちほになっているのではないかとおもいます。
▼あんけーとけっかがいようのP11いこう、だんじょべつのでーたをみたいとおもいました。たいへんきちょうなでーたで、ぜひ!!ほんにしてください。そうていよりは、じぇんだーのちしきはいきわたっているとおもうので、あとは、じっせんあるのみだとおもう。ざいにちどうほうのだんせいからまなざされる「おんならしさ」のあんもくのきたいにたいして、「ちょうせんがっこうのせいである」とせずに、きょういくないようをどうかんがえなおし、どうさいこうせいするのか、そこがたいへんじゅうようであり、こんごたいせつなかだいだとおもった。
▼こんごのかいぜんさくとして、きょういくがきーわーどになってきているのはうれしいとともに、これをかわきりにじっさいのきょういくげんばへのあくしょんにつなげていくことがだいじかとおもいます。わたしはやはりがっこうでおこなうべきとおもいます。
▼(※にほんじんさんかしゃから)かだい(じぇんだーにかんしては)、にほんしゃかいとざいにちしゃかいもおなじようにおもいます。みんぞくさべつにこうするために、せいさべつはちいさいこと、あとまわしにすることだというかんがえもあるとおもいます。それは、ろんりてきには、にほんのじぇんだーはんたいのひとのなかにはおなじがいねんをもっているひとはたくさんいるとおもいます。みんぞくさべつとせいさべつ、じんけんなどについていっしょにかんがえていきたいとおもいます。こんていにあるものは、へんかくできることだとじっかんしています。
▼ざいにちどうほうしゃかいのせいさべつのもんだいをないぶのもんだいだけでとらえずに、にほんしゃかいからのあっぱくのりきがくをふまえてかんがえていけるばをつくりたいです。
▼せいさべつとみんぞくさべつのなかでどのようなこんなんをかかえてるのかのじったいはみえてこないかなとおもいました。にんしきをつかもうするあんけーとというのはわかったのですが、ぶかいをうんえいするうえにおいても「けいはつ」をちゅうしんにすえるだけでいいのかな…?とふとおもいました。うえからめせんにおちいらないためにもひびのせいかつのなかで、ちくいちしてきできなかったとしても、しゃかいてきにせいさべつをきょようするようにしいられてるげんじつをときほぐすことがひつようなようなきがします。
▼じゆうかいとうのぶぶんでさまざまないけんがかかれており、じぶんがきょうかんすること、またはいせいがそうおもっているということがわかり、ひじょうにきちょうなしりょうだとおもいます。
▼どうほうしゃかいにおいてだんじょのやくわりがとてもめいかくにされており、じょせいだけでなく だんせいにとってもいきぐるしいしゃかいであるということをあらためてかんじました。どうほうしゃかいがよりびょうどうでかいほうされたしゃかいになるためには、じぇんだーのしてんというのはかかすことはできず、これからのわかいひとたちがよりこのようなばでかんがえじっせんしていかなければならないとかんがえた。わたしじしんもまだまだりかいがすくなかったりふべんきょうで、だれかのあしをふんでいないかということをかんがえつづけながら、これからもかつどうし、またこのようなばにさんかしていきたいとおもう。
*にぜろいちよんねんれんぞくこうざのないようおよび「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかについては、かきしょせきにてすべておよみいただけます
*『だれもがいきいきといきられるしゃかいのために せいさべつてっぱいぶかいれんぞくこうざのきろく&「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかほうこくしょ』