▼内容の振り返り

今回の講座は、①第1~4回の振り返り、②「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果概要発表、③公開討論「ジェンダーの視点からみる同胞社会」、という構成で行いました。

①第1~4回の振り返り

金真美さん(会員、朝鮮大学校・文学歴史学部教員)と李イスル(会員、銀座三原橋法律事務所スタッフ)さんが第1~4回の講座内容を振り返りながら、これまで参加されながらの感想を述べてくださいました。

金真美さんは、踏みつけられてきた在日朝鮮人が誰かを踏みつけてはいなかったか真に解放される生き方をこの講座を通して考えさせられたということ、教育現場につくものとして、ここにいる皆様とともに、過去清算問題解決や祖国統一、性差別のない同胞社会のために常に自身の身をたたかう側において邁進していきたい、と話されました。

李イスルさんは、この間部会に積極的に参加してきたが、部会への参加が免罪符にはならないということ、たとえば同胞が広く集まる場所で性差別的な言動をみたときに、自分が何を言えるのか、実践できるかどうかが重要であること、部会に参加しながらも、たとえば性別役割分業が必要だと思っている人がいたらとても悲しいが、そのようなこともきっちり考えたい、と話されました。

②「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果概要発表

金優綺さんから、回答者の属性(回収した150名中、10~30代が9割、女性51%男性48%、職種は団体職員35%、会社員27%、学生23%…等々)について発表したあと、それぞれのアンケート項目について時間の許す範囲で発表をしました。たとえば、「セクハラと思うもの」や「DVと思うもの」の選択肢でマルをつけた数を平均すると、女性が男性よりも1つ以上多くマルをつけていたことが分かりました。「DVと思うもの」については、全体的な傾向として、精神的暴力・性的暴力を「DVと思う」という回答が、身体的暴力を「DVと思う」回答よりも少ないことが分かりました。

実際に回答者が記入してくれた「セクハラだと思う言動の経験」については、

「早く結婚しろと冗談で言われた」
「男性陣の焼き肉を焼かせられた。女のくせにそんなに勉強してどうする、早く嫁に行けと言われた。結婚しない人間は『かたわ』だと言われた」
「容姿のことを会う度に言われる。飲み会の場で下ネタを言われこちらの反応を楽しまれる」
「(お前は)女みたいだな」と言われた」

DVと思う言動の経験については、

「以前付き合っていた恋人から(カ)(キ)にあたる行為をされていたことがある」
「お金を貸しても返ってこなかった(何度言っても)」
以前付き合っていた恋人に対して性行為やそれに準ずる行為を嫌がっているにもかかわらず要求したことがある」
「どんな意見を言っても『そういうとこが○○はダメなんだよ」などと言われて自信を奪われた。『愛してるから』『どうせ自分はだめなんだ、○○も自分から逃げていくんだよね』等の言葉で束縛された。性行為を強要され、拒否すると暴れられた」

などが自由回答で記入されていました。さらに、生活のなかで経験した性差別については、

「大事な役割は基本的に男性が任されること。女性だからということだけで、能力があってもなかなか役職をもらえない」
「職場で、使った食器を洗うのは女性というのが自然にきまっている。結婚すると『いつまで仕事続けるの?』と聞かれる」
「黒や紺色が好きで、いつもそのような色の服装をし、メンズもの等で揃えると、男っぽいだの女らしくしろだの周りに言われた。髪をベリーショートにした時も周りにもうやるなと言われた。
同性愛者、バイであることを匂わせる発言、行動をすると気持ち悪いと言われた」
「力仕事はすべて男の仕事。弱々しい態度を取ると、男らしくないとからかわれる。同性愛者への蔑視。笑いのネタにする。」
「職場の意思決定機関に女性が少なく、意思決定過程に女性が主体的に関われない。女性たちは暗黙の了解で沈黙させられており、常に後方支援の役割をさせられる。これらについて声を上げたとしても、『うるさい女』という目で見下され、無視・排除される。
セクハラやDVが性暴力という認識が無いに等しく、笑いのネタにされて終わる。『自分はお茶を淹れたことがある』『最近子どもをお風呂に入れている』など、低いレベルで性差別の問題を捉えられて分かったふりをされる。
こちらも消耗させられるのを回避するために沈黙や笑顔でスルーしようとするが、そうしたらしたで後で声を上げなかった自分を責めてしまう」

などなど、たくさんの回答がありました。

(本アンケート結果については、今後、より多くの意見を反映して冊子としてまとめたいと思っています。最下部に、意見交換会のお知らせを記載しています。ぜひ多くの方のご参加をお待ちしています)

③公開討論「ジェンダーの視点からみる同胞社会」

公開討論には、李全美さん(会員、在日本朝鮮人医学協会専従)、白凛さん(会員、東大大学院在籍、在日朝鮮人美術史研究専攻)、金成樹さん(会員、朝鮮大学校・文学歴史学部教員)が出演されました。

まず、コーディーネーターの李全美さんが今年の連続講座のチラシの前文を読み上げながら公開討論を行うにあたっての問題意識について発言しました。その後、それぞれが自己紹介をかねて自身の問題意識について発言し、どういったときに息苦しさや、逆に解放感を感じるのかといったことについても発言されました。

李全美さんは、30代で結婚していないシングルの立場から、幼い頃から感じていた性差別経験、総聯組織の中だと、積極的に動く人でなければ、加盟する適当な団体がなく排除されてしまうのでは、という問題意識、結婚していないことがおかしいとされるような風潮へのおそれ、フェミニズム的な発言をすると周囲に顔色を伺われてしまって逆に気を使ってしまうこと、一方では「ジェンダーだからね(笑)」「おまえもジェンダーなの?」など、差別に抵抗することを笑いに変えられることへの息苦しさ、しかしながら部会の場で、人の価値は性別や結婚、パートナーや子どもがいるかどうかでは決まらないということを確認できたこと、こういう思いを共有してくれている人がいると思うと解放を感じること、掃除やお茶くみをさせている人はたくさんいると思うが、日々の生活の中で、実践していけるか、思いを共有していけるかが大事だと思う、と発言されました。

白凛さんは、結婚・子育てを行っている立場から、出産・子育てがいかに具体的に大変なのかに触れながら(たとえば出産後に出血が1ヶ月も続くなど)、結婚・出産・育児が当り前のこととしていかに幸せなものとして「神秘化」され、愚痴もこぼしてはいけないような雰囲気があること、自身も「結婚せずにいつまで勉強するの?」「子どもはいつ?」「二人目はいつ?」などと問われ続けたこと、結婚か仕事かという二者択一を女性に迫るような世界を変えたい、同胞のための同胞による家事・育児代行サービスがあればいいなと思う、同胞社会の中で本当にあたたかく妊娠・出産・育児を見つめるような仕組みが出来ればいいなと思った、などなど発言されました。

金成樹さんは、四人きょうだいの末っ子長男として幼い頃から「男らしさ」を常に要求され、朝鮮学校の部活動でも男子はサッカー部などと選択の余地がなかったこと、「おかま」「男らしくなくて気持ち悪い」など差別的な発言を受けて嫌でたまらなかったこと、自分らしさを確立する前に男らしさを強要されてきたと思う、何よりも嫌でつらかったのは、周りが求める男らしさが嫌なのに、そのステレオタイプを自分が目指していたと感じたときであったこと、現在は教員として、学生のうち女性が7割であっても班長は男性と決まっていることなど男性中心主義の根深さについて悩んでいること、ジェンダーという概念を知って、フラットに話せる知り合いを得て、今は昔よりは自分らしく生きられていると思うこと、これからは教育者としての・男性としての責任を感じて、男性であるからこそ性差別にNOと言い、学生や同胞が少しでも解放されるような実践をしていきたい、と発言されました。

会場からは、子どもを送っている幼稚園ですでに「女の子はかわいく、男の子は強く」などの教育がなされていることへの不安や、在日朝鮮人の歴史を考えたときに、日本社会から繰り返し行われる暴力の中で男性中心的なところが指向されてきたというところがあること、朝鮮学校で女子生徒がチマチョゴリを着用することが女性役割を押しつけているという言論への疑問、在日朝鮮人運動の団結の中で求められた規範の一つが性別役割分業であり、そういう中で見落とされてきたのが女性の人権の問題であり、これは家父長制に支えられていること、何から始めるかはみんなで考えていかねばならないが、風穴をあけられるということを今日の学習会で感じた、等の声がありました。

☆:…:☆寄せられた感想から☆:…:☆

▼自分はジェンダーからだけではないですが、生きにくい社会だと思う事が多くて、それを自分のせいだと責めたり、でもやっぱり違うと思っても、それを言えない自分を余計にきらいになったりしていましたが、この公開討論のおかげで、まず同じように疑問を持っている人がいること、そして、社会を変えようと本気でがんばっている人がいるとまた知ることができました。
これから、今度は自分が、アウトプットには力が必要ですが、がんばって発信していかないと、無意識の人たちに気づいてはもらえないので、がんばらないとと思いました。
勇気をもらいました。それから、こんなアンケートをしているという事を同胞社会全体として知る機会があったらいいなと思います。정말 고맙습니다.

学生時代に男女の役割分担について気づくことがほとんどなくいかに何も考えずに生きてきたのかを実感。当り前のように規範を受け入れてきたことへの反省。
組織内部から反省が生まれ良い方向に進むことは中々難しいと思うので、ソンセンニム方がこの講義に出てもらいたいと思う一方で、もっと外部の自分たちが疑問をウリハッキョに投げかけていきたいと思いました。大好きなウリハッキョだからこそ。
もっと組織と外部が意見交換できる場があればいいなと思いました。もっとウリハッキョ・総聯をよくしたい、離れていく同胞を取り戻したいから。

▼同胞社会の中で自分がマジョリティであったこと。同じ時間・場所を過ごした友人の中にも息苦しさを感じる人が多かったのではないかと思うと申し訳なさを感じる一方、ここで申し訳なさをナが感じたところで当人の苦しさは1ミリも軽減されないんだし、何度も言われていたことですが、実践していければと思います。

▼全体の雰囲気としては一体感があったと思う。
パネラーのお三方がご自身のパーソナルな経験や思いについて赤裸々に語ってくれたので、会場からも切々とした内容の吐露があったりと、全体が発言者の言葉に思いを馳せながら、議論を共有する場となったと思う。

▼(アンケートで)至る所に男女の意識の差が見てとれた。男であることの責任をもっと考えなくちゃいけない。

▼アンケートの結果を見て自分でも気付かされたのが、セクハラ・DVの認定基準に関して身体的なもの・暴力的なものにばかり焦点を当てていたことです。

▼나의 체험에서 어느 선생님께서 마지막에 한마리 하실 때 일군을 한다면 계속해야 한다. 녀동무들은 결혼하면 그만둘수도 있지만 하는 말을 하셨는데 그것에 참 모순을 느꼈습니다.
재일조선인사회를 지키는데 남편이 일군을 하고 안해는 그 남편을 支える라는 굳어진 생각을 가진 사람도 많다고 생각합니다. 경제적사정으로 어느 한쪽이 돈을 벌수 있는 직업을 해야 한다고 해도 함께 평등한 위치에 서서 토의해야 할 문제라고 생각합니다.

▼在日同胞社会では”当り前”と思われているような「ささいな」事柄が、ある人にとっては「生きにくさ」をもたらしているということを、アンケートの結果をみて発見することが多かったです。同胞社会を変えるためにこのアンケートをどのように使うことができるのか、いろいろ考えてみます。

▼今回の公開討論を通して、<ジェンダー>の視点からみえる同胞社会にある<生きにくさ>について再度考えることができました。そして、このような問題意識を持つ人が(まだ数は多くはないですけれども)いるということを、この連続講座に参加する中で、初めて知るようになりました。
現在、日本社会で”民族”の痛みを共有する同胞社会を、より多くの人にとって”いきいきと生きられる社会”へと、変えていかなければならないと思いました。
今後、在日朝鮮人として<ジェンダー>の問題をどのように考えていかなければならないのか、自身の答えをみつけていきたいです。

▼「ジェンダー(笑)」という場面に最近よくいあわせ、つくづく傷ついていました。また新たにたたかうパワーもらいました!!

▼様々な立場で経験してきたことも違う人たちの話を聞いて、自分自身も知らない間に差別してきたのではないかと振り返りました。今回のアンケートもとに、一つずつ何か行動に移せたら良いなと思います。

私はやはり変える第一歩として朝鮮学校における教育が効果的なのではないかと考えております。
ジェンダーについてこのように自由に語ることが出来る場が今までなかったのに、今は出来ているということが、今後の新しい展望を見出す一歩になっているのではないかと思います。

▼アンケート結果概要のP11以降、男女別のデータをみたいと思いました。大変貴重なデータで、ぜひ!!本にしてください。想定よりは、ジェンダーの知識は行き渡っていると思うので、あとは、実践あるのみだと思う。
在日同胞の男性からまなざされる「女らしさ」の暗黙の期待に対して、「朝鮮学校のせいである」とせずに、教育内容をどう考え直し、どう再構成するのか、そこが大変重要であり、今後大切な課題だと思った。

▼今後の改善策として、教育がキーワードになってきているのは嬉しいとともに、これを皮切りに実際の教育現場へのアクションにつなげていくことが大事かと思います。私はやはり学校で行うべきと思います。

▼(※日本人参加者から)
課題(ジェンダーに関しては)、日本社会と在日社会も同じように思います。民族差別に抗するために、性差別は小さいこと、後回しにすることだという考えもあると思います。それは、論理的には、日本のジェンダー反対の人の中には同じ概念をもっている人はたくさんいると思います。
民族差別と性差別、人権などについて一緒に考えていきたいと思います。根底にあるものは、変革できることだと実感しています。

▼在日同胞社会の性差別の問題を内部の問題だけでとらえずに、日本社会からの圧迫の力学を踏まえて考えていける場をつくりたいです。

性差別と民族差別のなかでどのような困難を抱えてるのかの実態は見えてこないかなと思いました。認識をつかもうするアンケートというのはわかったのですが、部会を運営する上においても「啓発」を中心に据えるだけでいいのかな…?とふと思いました。
上から目線に陥らないためにも日々の生活のなかで、逐一指摘できなかったとしても、社会的に性差別を許容するように強いられてる現実を解きほぐすことが必要なような気がします。

▼自由回答の部分で様々な意見が書かれており、自分が共感すること、または異性がそう思っているということがわかり、非常に貴重な資料だと思います。

▼同胞社会において男女の役割がとても明確にされており、女性だけでなく男性にとっても息苦しい社会であるということを改めて感じました。
同胞社会がより平等で解放された社会になるためには、ジェンダーの視点というのは欠かすことはできず、これからの若い人たちがよりこのような場で考え実践していかなければならないと考えた。
私自身もまだまだ理解が少なかったり不勉強で、誰かの足を踏んでいないかということを考え続けながら、これからも活動し、またこのような場に参加していきたいと思う。

 

*2014年連続講座の内容及び「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果については、下記書籍にてすべてお読みいただけます*

だれもがいきいきと生きられる社会のために 性差別撤廃部会連続講座の記録&「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果報告書

 


 

▼ないようのふりかえり

こんかいのこうざは、①だい1~4かいのふりかえり、②「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかがいようはっぴょう、③こうかいとうろん「じぇんだーのしてんからみるどうほうしゃかい」、というこうせいでおこないました。

①だい1~4かいのふりかえり

きむ・ちんみさん(かいいん、ちょうせんだいがっこう・ぶんがくれきしがくぶきょういん)と り・いする(かいいん、ぎんざみはらばしほうりつじむしょすたっふ)さんが だい1~4かいのこうざないようをふりかえりながら、これまでさんかされながらのかんそうをのべてくださいました。

きむ・ちんみさんは、ふみつけられてきたざいにちちょうせんじんがだれかをふみつけてはいなかったか、しんにかいほうされるいきかたをこのこうざをとおしてかんがえさせられたということ、きょういくげんばにつくものとして、ここにいるみなさまとともに、かこせいさんもんだいかいけつやそこくとういつ、せいさべつのないどうほうしゃかいのためにつねにじしんのみをたたかうがわにおいてまいしんしていきたい、とはなされました。

り・いするさんは、このかんぶかいにせっきょくてきにさんかしてきたが、ぶかいへのさんかがめんざいふにはならないということ、たとえばどうほうがひろくあつまるばしょでせいさべつてきなげんどうをみたときに、じぶんがなにをいえるのか、じっせんできるかどうかがじゅうようであること、ぶかいにさんかしながらも、たとえばせいべつやくわりぶんぎょうがひつようだとおもっているじんがいたらとてもかなしいが、そのようなこともきっちりかんがえたい、とはなされました。

②「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかがいようはっぴょう

きんうぎさんから、かいとうしゃのぞくせい(かいしゅうした150めいちゅう、10~30だいが9わり、じょせい51ぱーせんとだんせい48ぱーせんと、しょくしゅはだんたいしょくいん35ぱーせんと、かいしゃいん27ぱーせんと、がくせい23ぱーせんと…など)についてはっぴょうしたあと、それぞれのあんけーとこうもくについてじかんのゆるすはんいではっぴょうをしました。たとえば、「せくはらとおもうもの」や「DVとおもうもの」のせんたくしでまるをつけたかずをへいきんすると、じょせいがだんせいよりもひとついじょうおおくまるをつけていたことがわかりました。「DVとおもうもの」については、ぜんたいてきなけいこうとして、せいしんてきぼうりょく・せいてきぼうりょくを「DVとおもう」というかいとうが、しんたいてきぼうりょくを「DVとおもう」かいとうよりもすくないことがわかりました。

じっさいにかいとうしゃがきにゅうしてくれた「せくはらだとおもうげんどうのけいけん」については、

「はやくけっこんしろとじょうだんでいわれた」
「だんせいじんのやきにくをやかせられた。おんなのくせにそんなにべんきょうしてどうする、はやくよめにいけといわれた。けっこんしないにんげんは『かたわ』だといわれた」
「ようしのことをあうたびにいわれる。のみかいのばでしもねたをいわれこちらのはんのうをたのしまれる」
「(おまえは)おんなみたいだな」といわれた」

DVとおもうげんどうのけいけんについては、「いぜんつきあっていたこいびとから(か)(き)にあたるこういをされていたことがある」
「おかねをかしてもかえってこなかった(なんどいっても)」
「いぜんつきあっていたこいびとにたいしてせいこういやそれにじゅんずるこういをいやがっているにもかかわらずようきゅうしたことがある」
「どんないけんをいっても『そういうとこが○○はだめなんだよ」などといわれてじしんをうばわれた。『あいしてるから』『どうせじぶんはだめなんだ、○○もじぶんからにげていくんだよね』とうのことばでそくばくされた。せいこういをきょうようされ、きょひするとあばれられた」

などがじゆうかいとうできにゅうされていました。さらに、せいかつのなかでけいけんしたせいさべつについては、

「だいじなやくわりはきほんてきにだんせいがまかされること。じょせいだからということだけで、のうりょくがあってもなかなかやくしょくをもらえない」
「しょくばで、つかったしょっきをあらうのはじょせいというのがしぜんにきまっている。けっこんすると『いつまでしごとつづけるの?』ときかれる」
「くろやこんいろがすきで、いつもそのようないろのふくそうをし、めんずものとうでそろえると、おとこっぽいだのおんならしくしろだのまわりにいわれた。かみをべりーしょーとにしたときもまわりにもうやるなといわれた。どうせいあいしゃ、ばいであることをにおわせるはつげん、こうどうをするときもちわるいといわれた」
「ちからしごとはすべておとこのしごと。よわよわしいたいどをとると、おとこらしくないとからかわれる。どうせいあいしゃへのべっし。わらいのねたにする。」
「しょくばのいしけっていきかんにじょせいがすくなく、いしけっていかていにじょせいがしゅたいてきにかかわれない。じょせいたちはあんもくのりょうかいでちんもくさせられており、つねにこうほうしえんのやくわりをさせられる。これらについてこえをあげたとしても、『うるさいおんな』というめでみくだされ、むし・はいじょされる。
せくはらやDVがせいぼうりょくというにんしきがないにひとしく、わらいのねたにされておわる。『じぶんはおちゃを淹れたことがある』『さいきんこどもをおふろにいれている』など、ひくいれべるでせいさべつのもんだいをとらえられてわかったふりをされる。
こちらもしょうもうさせられるのをかいひするためにちんもくやえがおでするーしようとするが、そうしたらしたであとでこえをあげなかったじぶんをせめてしまう」などなど、たくさんのかいとうがありました。

(ほんあんけーとけっかについては、こんご、よりおおくのいけんをはんえいしてさっしとしてまとめたいとおもっています。さいかぶに、いけんこうかんかいのおしらせをきさいしています。ぜひおおくのかたのごさんかをおまちしています)

③こうかいとうろん「じぇんだーのしてんからみるどうほうしゃかい」

こうかいとうろんには、り・ちょんみさん(かいいん、ざいにほんちょうせんじんいがくきょうかいせんじゅう)、ぺく・るんさん(かいいん、とうだいだいがくいんざいせき、ざいにちちょうせんじんびじゅつしけんきゅうせんこう)、きむ・そんすさん(かいいん、ちょうせんだいがっこう・ぶんがくれきしがくぶきょういん)がしゅつえんされました。

まず、こーでぃーねーたーのり・ちょんみさんがことしのれんぞくこうざのちらしのぜんぶんをよみあげながら こうかいとうろんをおこなうにあたってのもんだいいしきについてはつげんしました。そのご、それぞれが じこしょうかいをかねてじしんのもんだいいしきについてはつげんし、どういったときにいきぐるしさや、ぎゃくにかいほうかんをかんじるのかといったことについてもはつげんされました。

り・ちょんみさんは、30だいでけっこんしていないしんぐるのたちばから、おさないころからかんじていたせいさべつけいけん、そうれんそしきのなかだと、せっきょくてきにうごくひとでなければ、かめいするてきとうなだんたいがなくはいじょされてしまうのでは、というもんだいいしき、けっこんしていないことがおかしいとされるようなふうちょうへのおそれ、ふぇみにずむてきなはつげんをするとしゅういにかおいろをうかがわれてしまってぎゃくにきをつかってしまうこと、いっぽうでは「じぇんだーだからね(わらい)」「おまえもじぇんだーなの?」など、さべつにていこうすることをわらいにかえられることへのいきぐるしさ、しかしながらぶかいのばで、ひとのかちはせいべつやけっこん、ぱーとなーやこどもがいるかどうかではきまらないということをかくにんできたこと、こういうおもいをきょうゆうしてくれているひとがいるとおもうとかいほうをかんじること、そうじやおちゃくみをさせているひとはたくさんいるとおもうが、ひびのせいかつのなかで、じっせんしていけるか、おもいをきょうゆうしていけるかがだいじだとおもう、とはつげんされました。

ぺく・るんさんは、けっこん・こそだてをおこなっているたちばから、しゅっさん・こそだてがいかに ぐたいてきにたいへんなのかにふれながら(たとえばしゅっさんごにしゅっけつがいっかげつもつづくなど)、けっこん・しゅっさん・いくじがあたりまえのこととしていかにしあわせなものとして「しんぴか」され、ぐちもこぼしてはいけないようなふんいきがあること、じしんも「けっこんせずにいつまでべんきょうするの?」「こどもはいつ?」「ふたりめはいつ?」などととわれつづけたこと、けっこんかしごとかというにしゃたくいつをじょせいにせまるようなせかいをかえたい、どうほうのためのどうほうによるかじ・いくじだいこうさーびすがあればいいなとおもう、どうほうしゃかいのなかでほんとうにあたたかくにんしん・しゅっさん・いくじをみつめるようなしくみができればいいなとおもった、などなどはつげんされました。

きむ・そんすさんは、よにんきょうだいのすえっこちょうなんとしておさないころから「おとこらしさ」をつねにようきゅうされ、ちょうせんがっこうのぶかつどうでもだんしはさっかーぶなどとせんたくのよちがなかったこと、「おかま」「おとこらしくなくてきもちわるい」などさべつてきなはつげんをうけていやでたまらなかったこと、じぶんらしさをかくりつするまえにおとこらしさをきょうようされてきたとおもう、なによりもいやでつらかったのは、まわりがもとめるおとこらしさがいやなのに、そのすてれおたいぷをじぶんがめざしていたとかんじたときであったこと、げんざいはきょういんとして、がくせいのうちじょせいが7わりであっても はんちょうはだんせいときまっていることなど だんせいちゅうしんしゅぎのねぶかさについてなやんでいること、じぇんだーというがいねんをしって、ふらっとにはなせるしりあいをえて、いまはむかしよりはじぶんらしくいきられているとおもうこと、これからはきょういくしゃとしての・だんせいとしてのせきにんをかんじて、だんせいであるからこそせいさべつにNOといい、がくせいやどうほうがすこしでもかいほうされるようなじっせんをしていきたい、とはつげんされました。

かいじょうからは、こどもをおくっているようちえんですでに「おんなのこはかわいく、おとこのこはつよく」などのきょういくがなされていることへのふあんや、ざいにちちょうせんじんのれきしをかんがえたときに、にほんしゃかいからくりかえしおこなわれるぼうりょくのなかでだんせいちゅうしんてきなところがしこうされてきたというところがあること、ちょうせんがっこうでじょしせいとがちまちょごりをちゃくようすることがじょせいやくわりをおしつけているというげんろんへのぎもん、ざいにちちょうせんじんうんどうのだんけつのなかでもとめられたきはんのひとつがせいべつやくわりぶんぎょうであり、そういうなかでみおとされてきたのがじょせいのじんけんのもんだいであり、これはかふちょうせいにささえられていること、なにからはじめるかはみんなでかんがえていかねばならないが、かざあなをあけられるということをきょうのがくしゅうかいでかんじた、などのこえがありました。

☆:…:☆よせられたかんそうから☆:…:☆

▼じぶんはじぇんだーからだけではないですが、いきにくいしゃかいだとおもうことがおおくて、それをじぶんのせいだとせめたり、でもやっぱりちがうとおもっても、それをいえないじぶんをよけいにきらいになったりしていましたが、このこうかいとうろんのおかげで、まずおなじようにぎもんをもっているひとがいること、そして、しゃかいをかえようとほんきでがんばっているひとがいるとまたしることができました。
これから、こんどはじぶんが、あうとぷっとにはちからがひつようですが、がんばってはっしんしていかないと、むいしきのひとたちにきづいてはもらえないので、がんばらないととおもいました。
ゆうきをもらいました。それから、こんなあんけーとをしているということをどうほうしゃかいぜんたいとしてしるきかいがあったらいいなとおもいます。정말 고맙습니다(ちょんまる こまっすんみだ).

▼がくせいじだいにだんじょのやくわりぶんたんについてきづくことがほとんどなくいかになにもかんがえずにいきてきたのかをじっかん。あたりまえのようにきはんをうけいれてきたことへのはんせい。そしきないぶからはんせいがうまれよいほうこうにすすむことはちゅう々むずかしいとおもうので、そんせんにむかたがこのこうぎにでてもらいたいとおもういっぽうで、もっとがいぶのじぶんたちがぎもんをうりはっきょになげかけていきたいとおもいました。だいすきなうりはっきょだからこそ。
もっとそしきとがいぶがいけんこうかんできるばがあればいいなとおもいました。もっとうりはっきょ・そうれんをよくしたい、はなれていくどうほうをとりもどしたいから。

▼どうほうしゃかいのなかでじぶんがまじょりてぃであったこと。おなじじかん・ばしょをすごしたゆうじんのなかにもいきぐるしさをかんじるひとがおおかったのではないかとおもうと もうしわけなさをかんじるいっぽう、ここでもうしわけなさをながかんじたところでとうにんのくるしさはいちみりもけいげんされないんだし、なんどもいわれていたことですが、じっせんしていければとおもいます。

▼ぜんたいのふんいきとしてはいったいかんがあったとおもう。
ぱねらーのおさんかたがごじしんのぱーそなるなけいけんやおもいについてせきららにかたってくれたので、かいじょうからもせつせつとしたないようのとろがあったりと、ぜんたいがはつげんしゃのことばにおもいをはせながら、ぎろんをきょうゆうするばとなったとおもう。

▼(あんけーとで)いたるところにだんじょのいしきのさがみてとれた。おとこであることのせきにんをもっとかんがえなくちゃいけない。

▼あんけーとのけっかをみてじぶんでもきづかされたのが、せくはら・DVのにんていきじゅんにかんして しんたいてきなもの・ぼうりょくてきなものにばかりしょうてんをあてていたことです。

▼(ちょそんくる=ちょうせんもじ のぶぶん しょうりゃく)

▼ざいにちどうほうしゃかいでは”あたりまえ”とおもわれているような「ささいな」ことがらが、あるひとにとっては「いきにくさ」をもたらしているということを、あんけーとのけっかをみてはっけんすることがおおかったです。どうほうしゃかいをかえるためにこのあんけーとをどのようにつかうことができるのか、いろいろかんがえてみます。

▼こんかいのこうかいとうろんをとおして、<じぇんだー>のしてんからみえるどうほうしゃかいにある<いきにくさ>についてさいどかんがえることができました。そして、このようなもんだいいしきをもつひとが(まだかずはおおくはないですけれども)いるということを、このれんぞくこうざにさんかするなかで、はじめてしるようになりました。げんざい、にっぽんしゃかいで”みんぞく”のいたみをきょうゆうするどうほうしゃかいを、よりおおくのひとにとって”いきいきといきられるしゃかい”へと、かえていかなければならないとおもいました。こんご、ざいにちちょうせんじんとして<じぇんだー>のもんだいをどのようにかんがえていかなければならないのか、じしんのこたえをみつけていきたいです。

▼「じぇんだー(わらい)」というばめんにさいきんよくいあわせ、つくづくきずついていました。またあらたにたたかうぱわーもらいました!!

▼さまざまなたちばでけいけんしてきたこともちがうひとたちのはなしをきいて、じぶんじしんもしらないまにさべつしてきたのではないかとふりかえりました。こんかいのあんけーともとに、ひとつずつなにかこうどうにうつせたらよいなとおもいます。

▼わたしはやはりかえるだいいっぽとしてちょうせんがっこうにおけるきょういくがこうかてきなのではないかとかんがえております。
じぇんだーについてこのようにじゆうにかたることができるばがいままでなかったのに、いまはできているということが、こんごのあたらしいてんぼうをみいだすいちほになっているのではないかとおもいます。

▼あんけーとけっかがいようのP11いこう、だんじょべつのでーたをみたいとおもいました。たいへんきちょうなでーたで、ぜひ!!ほんにしてください。そうていよりは、じぇんだーのちしきはいきわたっているとおもうので、あとは、じっせんあるのみだとおもう。ざいにちどうほうのだんせいからまなざされる「おんならしさ」のあんもくのきたいにたいして、「ちょうせんがっこうのせいである」とせずに、きょういくないようをどうかんがえなおし、どうさいこうせいするのか、そこがたいへんじゅうようであり、こんごたいせつなかだいだとおもった。

▼こんごのかいぜんさくとして、きょういくがきーわーどになってきているのはうれしいとともに、これをかわきりにじっさいのきょういくげんばへのあくしょんにつなげていくことがだいじかとおもいます。わたしはやはりがっこうでおこなうべきとおもいます。

▼(※にほんじんさんかしゃから)かだい(じぇんだーにかんしては)、にほんしゃかいとざいにちしゃかいもおなじようにおもいます。みんぞくさべつにこうするために、せいさべつはちいさいこと、あとまわしにすることだというかんがえもあるとおもいます。それは、ろんりてきには、にほんのじぇんだーはんたいのひとのなかにはおなじがいねんをもっているひとはたくさんいるとおもいます。みんぞくさべつとせいさべつ、じんけんなどについていっしょにかんがえていきたいとおもいます。こんていにあるものは、へんかくできることだとじっかんしています。

▼ざいにちどうほうしゃかいのせいさべつのもんだいをないぶのもんだいだけでとらえずに、にほんしゃかいからのあっぱくのりきがくをふまえてかんがえていけるばをつくりたいです。

▼せいさべつとみんぞくさべつのなかでどのようなこんなんをかかえてるのかのじったいはみえてこないかなとおもいました。にんしきをつかもうするあんけーとというのはわかったのですが、ぶかいをうんえいするうえにおいても「けいはつ」をちゅうしんにすえるだけでいいのかな…?とふとおもいました。うえからめせんにおちいらないためにもひびのせいかつのなかで、ちくいちしてきできなかったとしても、しゃかいてきにせいさべつをきょようするようにしいられてるげんじつをときほぐすことがひつようなようなきがします。

▼じゆうかいとうのぶぶんでさまざまないけんがかかれており、じぶんがきょうかんすること、またはいせいがそうおもっているということがわかり、ひじょうにきちょうなしりょうだとおもいます。

▼どうほうしゃかいにおいてだんじょのやくわりがとてもめいかくにされており、じょせいだけでなく だんせいにとってもいきぐるしいしゃかいであるということをあらためてかんじました。どうほうしゃかいがよりびょうどうでかいほうされたしゃかいになるためには、じぇんだーのしてんというのはかかすことはできず、これからのわかいひとたちがよりこのようなばでかんがえじっせんしていかなければならないとかんがえた。わたしじしんもまだまだりかいがすくなかったりふべんきょうで、だれかのあしをふんでいないかということをかんがえつづけながら、これからもかつどうし、またこのようなばにさんかしていきたいとおもう。

*にぜろいちよんねんれんぞくこうざのないようおよび「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかについては、かきしょせきにてすべておよみいただけます

*『だれもがいきいきといきられるしゃかいのために せいさべつてっぱいぶかいれんぞくこうざのきろく&「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかほうこくしょ』