▼講座内容の振り返り
【「まだ結婚しないの?」「男のくせに根性ない」
まず冒頭では、小学校の授業で必ず登場する「四季の歌」
また、
表現に限らず、漢字や単語に「女」や「母」
そして、
セクシュアル・ハラスメントは、
後半は、ワークシートを使用しながらセク・
セクシュアル・ハラスメントは、パワー・ハラスメント(
まとめと質疑応答では、
今回の講義を聞きながら、
今回は日本語(講義では国語という表現がされていて、
ですが、在日朝鮮人社会のなかでつかわれる朝鮮語にも「オモニ・
☆:…:☆寄せられた感想から☆:…:☆
▼「セクハラは相手の意に反する性的な言動」…
無意識によって傷つく人がいるということを常に考えながらこれか
▼セクシャル・
▼
差別語など無意識のうちに自身の中にまた差別があると思い反省し
▼今まで自分がジェンダー、
こういう事実がこの社会に充実してないことが問題と思います。
▼「ことばは言語イデオロギーとして歴史的につくられた」
言葉はとても大事なもの。
*2014年連続講座の内容及び「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果については、下記書籍にてすべてお読みいただけます*
『だれもがいきいきと生きられる社会のために 性差別撤廃部会連続講座の記録&「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果報告書』
▼こうざないようのふりかえり
【「まだけっこんしないの?」「おとこのくせにこんじょうない」もせくはらです~せくしゅあるはらすめんとをまなぼう~】とだいしおこなわれたこんかいのこうざでは、こうしにとくながきょうこさん(おおつまじょしだいがくけんきゅういん、もととうきょうとしょうがっこうきょういん)をおまねきし、ことばにみられるじぇんだーやさべつせいからせくしゅある・はらすめんとのていぎにいたるまで、じしんのしょうがっこうきょういんじだいのけいけんだんもはさみながらわかりやすくていねいにおはなししていただきました。
まずぼうとうでは、しょうがっこうのじゅぎょうでかならずとうじょうする「しきのうた」をれいとしてとりあげ、かしのなかにおおくとうじょうする「ぼく」や「いわをくだくなみのようなぼくのちちおや」にだいひょうされるような、だんじょをわけるたんご、せいべつによってつくられたいめーじをあてはめるひょうげんなどがしてきされました。このようにことばがつくりだす「おとこらしさ・おんならしさ」は、れきしてきにいでおろぎー(しゃかいのなかでゆうりょくとされるかちかんやにんしき)としてつくられてきたということがのべられました。
また、こうしたことばこそがさべつというにんげんのしんりじょうたいをはっせいさせるということもどうじにしてきされました。「じょしだからぎょうぎよくしてね」「つよい!おとこのこだからなかないの」「おとこのくせにかいしょうがない」「おんなのくせにりょうりがへた」などなど、にちじょうにあふれているさまざまなひょうげんにかくれたさべつてきことば(そのこんきょとされているのはいずれもせいべつやくわりぶんぎょうやだんじょとくせいろん)がたくさんあげられました。
ひょうげんにかぎらず、かんじやたんごに「おんな」や「はは」といったもじがおおくみられること。「ぼこう」ということばもなぜ「しゅっしんこう」とうことばにおきかえないのかなど、ごじしんのきょういんじだいのじっせんけいけんについてもせつめいしていただきました。
そして、じょせいへのぼうりょくやじょせいのけんりをめぐるこくさいてきなどうこうについてしてきしながら、せくしゅあるはらすめんとのていぎについてていじされました。
せくしゅあるはらすめんとは、ぼうりょくをともなうれいぷからじょせいへのおちゃくみきょうせいにいたるまでたしゅたようである。そしてそのはんだんのぽいんとは「あいてのいにはんするせいてきこうどう」であり、きじゅんは「じぶん」ではなく「あいて」である。というとてもじゅうようなしてきがなされました。
こうはんは、わーくしーとをしようしながらせく・はらのげんばにいあわせたらじぶんはどのようにこうどうするかをぐたいてきにかんがえたり、せく・はらのばめんやかんけいせいによってどんなかたちであらわれるのか、ひがいにあったひとへかけたりかいなきことばやたいどがせく・はらのにじひがいをひきおこす、などをまなびました。
せくしゅあるはらすめんとは、ぱわー・はらすめんと(ちからによるいやがらせ)にせいてきなようそがふかされたものであり、せく・はらがおうこうするげんばにはぱわ・はらもはびこっているとしてきされました。
まとめとしつぎおうとうでは、にちじょうのなにげないことばにきをくばることのじゅうようせい、そしてそれをひとつずつ してきしかいぜんしていくじっせんの のうはうをきょうゆうしていくことがとくにきょうちょうされました。
こんかいのこうぎをききながら、むいしきにさべつてきなことばをつかってもわるぎがないから・しらなかったからしかたないとひらきなおるのは、はらすめんとのきじゅんを「あいて」ではなく「じぶん」においてはんだんする、ひじょうにきけんなかんがえかたであるとおもいました。ざいにちちょうせんじんがみんぞくさべつをこくはつしながらうんどうをしていても、つねにほかのだれかを・なかまをさべつしていないか、きずつけていないか、ひとりひとりがじしんのげんどうやたいどをふりかえることがたいせつであるとつうかんしました。
こんかいはにほんご(こうぎではこくごというひょうげんがされていて、しょうじきすくなしいわかんをかんじましたが)にかんすることばのせいさべつてきひょうげんがおもにはなされました。
ですが、ざいにちちょうせんじんしゃかいのなかでつかわれるちょうせんごにも「おもに・ちょぐっ(ははなるそこく)」などおなじもんだいをもったことばやひょうげんがたくさんあることもこんしんかいのばではなされました。だれもがいきいきといきられるざいにちちょうせんじんしゃかいをつくっていくために、こうしたもんだいからめをそらさず ふかくかんがえこんごのじっせんにつなげていくことが ひつようなのではないでしょうか。
☆:…:☆よせられたかんそうから☆:…:☆
▼「せくはらはあいてのいにはんするせいてきなげんどう」…せくはらをされたがわがいかにおもうかがじゅうようしされる、せくはらは「ぱわはらにせいてきなようそがふか」されたということにあらたなきづきがありました。むいしきによってきずつくひとがいるということをつねにかんがえながらこれからもべんきょうしていきたいとおもう。
▼せくしゃる・はらすめんとのていぎについてのはなしのなかで きじゅんはじぶんではなくあいてだということにすごくはっとさせられました。いままでせくはらについてどうりかいすればいいのだろう、なにがただしくてなにがまちがっているのだろうとかんがえていたぶぶんがあったのですが、そのげんいんが「じぶんきじゅん」にあるのではないかとおもいました。
▼せくはらってじょせいのからだにふれてじょせいがいやがることだとおもっていましたがきょうのこうぎをうけてじしんのかんがえがもうふるい、せまいとつうかんしました。さべつごなどむいしきのうちにじしんのなかにまたさべつがあるとおもいはんせいします。
▼いままでじぶんがじぇんだー、せくはらについてあまりにむかんしんなんだということがわかりました。きょうのこうぎをきいてみてじぶんはせくはらのかがいしゃでもありひがいしゃのりょうしゃなんだとおもいました。
こういうじじつがこのしゃかいにじゅうじつしてないことがもんだいとおもいます。にちじょうてきにせくはらがおこっているしゃかいにたいしてもっともんだいいしきをもっていきたいとおもいました。
▼「ことばはげんごいでおろぎーとしてれきしてきにつくられた」というないようがきょうみぶかかった。げんだいもどんどんことばがへんかしていくなかで、あらたなげんごいでおろぎーはひびうまれつづけているとおもう。「きたちょうせん・ちょうせん」ということばのように、そのことばをめにするだけで いっていのいめーじをいだかせるようなものがすくなくない。ことばはとてもだいじなもの。にちじょうでなにげなく はっしてしまうことばに さべつをじょちょうするものがあるかもしれない。そういうじかくをもたなければいけないとかんじた。
*2014ねんれんぞくこうざのないよう および「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかについては、かきしょせきにてすべておよみいただけます
*『だれもがいきいきといきられるしゃかいのために せいさべつてっぱいぶかいれんぞくこうざのきろく&「ざいにちどうほうのじぇんだーいしきにかんするあんけーと」けっかほうこくしょ』