▼講座内容の振り返り
講義としては今年度最後となる第4回は、
(1)まず、タイトルの質問に答えられないとき/
セクシュアルマイノリティとは、「
また、セクシュアルマイノリティの生きづらさについて、
国際的な人権問題として「LGBT」が注目を集めている一方、
(2)最後に、
ここでは日本の入管行政を例に、
☆:…:☆寄せられた感想から☆:…:☆
▼朝鮮学校でのセクシュアル・
▼私自身”恋愛”を中心に生活をしたことがないのですが、
▼
▼入国管理センター内のセクシュアル・マイノリティー、
▼私も差別的発言や行動(セクシュアル・
▼多様であること、星の数ほどある色んな性に対し(
▼セクシュアル・
*2014年連続講座の内容及び「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果については、下記書籍にてすべてお読みいただけます*
『だれもがいきいきと生きられる社会のために 性差別撤廃部会連続講座の記録&「在日同胞のジェンダー意識に関するアンケート」結果報告書』
▼こうざないようのふりかえり
こうぎとしてはこんねんどさいごとなるだいよんかいは、NPOれいんぼーあくしょんよりくどうはるこせんせいをおまねきし、「『かれし/かのじょいるの?』のひとことってどうなの?」というたいとるでおはなししていただきました。
(1)まず、たいとるのしつもんにこたえられないとき/こたえたくないときはどういうときか、こうしたかいわがかわされるときにぜんていにされているものはなにかというといから、せくしゅあるまいのりてぃのいきづらさやせくしゅあるまいのりてぃをとりまくしょもんだいについておはなししてくださいました。
せくしゅあるまいのりてぃとは、「じぇんだーとせくしゅありてぃについて、いせいあいきはんとせいべつにげんろんの『そとがわ』にいるひとびと」をさしますが、このしひょうとなる①しんたいてきとくちょうによるせいべつ②じぶんがじかくしているせいべつ③ふくそうやふるまいであらわされるせいべつ④せいてきにみりょくをかんじるたいしょうのせいべつ はゆれうごくものであるということ(おんなとしていき、しゅっさんしてから、「じぶんはおとことしていきたかったんだ」ときづくけーすなどについておはなしされました)、かてごりーにあてはまらないじにんのしかたがたようにあること、かてごりーにあてはめることよりもほんにんのいしにもとづくことがじゅうようであるときょうちょうされました。
また、せくしゅあるまいのりてぃのいきづらさについて、じここうていかんをはばむようなかんきょうがあることがしてきされました(がっこうでおしえられない、にちじょうてきなちょうしょうのまとになるなど。ちょっとしたかいわのなかでかわされる「おまえはおかまか」「こいつげいだからきをつけろ」「どうせいあいってきもちわるいよね」といったことば)。せくしゅあるまいのりてぃのじしねんりょりつ(「じさつ」したいとおもうひりつ)がそうでないひととくらべてたかいことや、いせいあいてきなせいどによるさべつについてもぐたいてきにげんきゅうされました。
こくさいてきなじんけんもんだいとして「LGBT」がちゅうもくをあつめているいっぽう、これがりべらるさやせんしんさをあらわすしひょうとなっていることについてもしてきがありました。たとえば、いすらえるの「ちゅうとうゆいいつのげい・ふれんどりーさ」によってぱれすちなのせんりょうをせいとうかすること、9.11いこうのあめりかで、むすりむに「やばんでいつだつしたせいへのすてぃぐま」をわりあて、かれらへのぼうりょくをせいとうかし じぶんたちのせいぎのありばいをかくとくしたことなどがあげられます。「LGBT」のじんけんはだれのためなのか、なんのためのうんどうなのかをみうしなわないようにしなければなりません。
(2)さいごに、せくしゅあるまいのりてぃをとりまくもんだいをかいけつするひとつのほうほうとして、「くぃあなまなざし」をもつことがていきされました。「くぃあ」とはもともとだんせいどうせいあいしゃをさすぶべつごですが、「くぃあうんどう」においてこのたんごは、ことばをとりかえし、いみをずらすことにより、「ふつう」だとおもわれていることをとうていこうとするしせいをあらわします。(ほうこくしゃこじんてきにはここで「ふといせんじん(ふていせんじん)」ということばをおもいだしました)
ここではにっぽんのにゅうかんぎょうせいをれいに、しゅうようのさいにひしゅうようしゃのせいじにんがまったくそんちょうされないこと、にゅうかんぎょうせいにおいてていじゅうのかのうせいをもつのはにっぽんじんやていじゅうしゃの「かぞく」であるところ、「こんいんのじったい」はいせいあいきはんがきほんとなっているいじょう、おおくのせくしゅあるまいのりてぃはこうしたせんたくしをもてないこと、また、いせいこんによってぱーとなーしっぷをもつとらんすじぇんだーは「ぎそうけっこん」とみなされること、せくしゅあるまいのりてぃは「のぞましいがいこくじん」のそうていがいであることなどがしてきされました。そして、このもんだいのほんしつは いせいあいしゅぎてきでじんしゅさべつてきなにゅうこくかんりせいどそのものであり、まさしく「くぃあなまなざし」をもってこれをりかいしかいけつすべきだとしてこうぎをしめくくられました。
☆:…:☆よせられたかんそうから☆:…:☆
▼ちょうせんがっこうでのせくしゅある・まいのりてぃをふくめたせいきょういくのとりくみにきたいします!
▼わたしじしん”れんあい”をちゅうしんにせいかつをしたことがないのですが、それが”いじょう”というあつかいをなんどもうけたことがあり、ふたんにかんじているふしがありました。いせいあい、けっこん=あかるいみらい、”ふつう”、”あたりまえ”というずしきにつねにいわかんをおぼえるじぶんでいたいとおもいます。
▼どうせいあいにたいするさべつやじっさいにさべつをうけたひとのVTRをみてじぶんじしん、ひととのせっしかたについてすごくかんがえさせられたこうぎとなりました。けっこんかんやれんあいかんにたいするにんしきについてもあらたにしることもおおくあったのでこんごのじんせいにおいてさんこうにしたいとおもいます。
▼にゅうこくかんりせんたーないのせくしゅある・まいのりてぃー、がいこくじんのじょうきょうについてはしらなかったんで、とてもべんきょうになりました。とくにじぶんのせいべつとはちがうところにおかれたり、きちんとしたいりょうけあ(ケア)がとれないことはもちろん、とくにれんらくじかんがみじかくがいぶとのこうりゅうをすることがなかなかできないじょうたいについてはおどろきました。しんぐるいしゅーだけでもんだいをとらえてはいかないということもかんがえさせられました。
▼わたしもさべつてきはつげんやこうどう(せくしゅある・まいのりてぃにたいしてのみならずいろんなことについて)だまっていないそんざいでありたいとおもいます。
▼たようであること、ほしのかずほどあるいろんなせいにたいし(じぶんだけでもこんかいのぶかいをつうじまなべたきかいがあるので)いわかんをかんじることなくすなおにうけいれるようにしたいとおもいます(さいしょはむずかしいかも…)。
▼せくしゅある・まいのりてぃーがけっしてすくなくないきぼでそんざいしていることはしゅうちのとおりですが、それはざいにちちょうせんじんにもどうようのことがいえるとかんがえます。にほんにおけるがいこくじんのせくしゅある・まいのりてぃーのもんだいはにゅうかんのけんでもあきらかになったように、よりふくざつなもんだいをはらんでいます。ただでさえしゃかいてきにふあんていないちにいるひとびとが、みずからのせくしゅありてぃをこうひょうすることはよりきびしいはーどるがあることです。そういうしてんからざいにちちょうせんじんのせくしゅある・まいのりてぃーについてもっとくわしくかんがえていくべきであるとおもいます。