私が眠りにつく頃、はたはたとファンデーションを叩きはじめるオモニ。鏡ごしに「どっか出かけるの?」と聞くと「お化粧の練習してるんだよ」という。夜中に目が覚めるとベッドは広々としていた。
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「ジェンダーとか言う人は女とか男とかいうことにこだわってる」という類の言葉をよく耳にする。こういう反応には?が浮かぶ。ジェンダーとは、社会的に(人々の価値観や文化、法制度によって)つくられた性別や性役割、そして自分や他者の性別についての意識のことだ。「男なら男らしくしなさい」「女らしいふるまい」といった考え方が社会的につくられていることを解く鍵だ。性別によって制約や圧迫を受ける現実を見つめ、女男の「自然な」違いにもとづき、当たり前とされてきた「こだわり」から解き放たれるためにこそジェンダーという言葉をつかうのだ。
ただし性差別は、単に個人の考え方や受け止め方の問題ではない。人の生き死ににも関わる問題だ。
女性や性的少数者への暴力は、性差別の露骨な表現であるが、法制度や生活状態にあらわれる差別もある。家事・育児・介護などのケア労働は女性が担うべきだという社会のしくみや人々の価値観によって、女性には就労の機会が限られている。日本の女性労働人口のうち53.8%が非正規雇用であり、かのじょたちの年収は平均172万円である(2012年度政府統計)。さらに実家の親や婚姻パートナーの居ない母子家庭の場合、その収入が世帯収入となり、その中から子どもを養わねばならない。
女性であることに加え、在日朝鮮人や外国籍であるゆえの差別や、中高卒者・各種学校などへの学歴差別が折り重なれば、いっそう生きていくのが困難となる。
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水道代が払えずにわが家が断水されたとき、オモニは役所に行って「うちは小さい子どもも居るのに、死んだらどうしてくれるんだよ!」と声をあげた。それから水道は止まらなくなった。うちは母子家庭で収入も少なかったが、オモニは生命力にあふれ、女友だちとの笑いにあふれていた。
両親はいわゆる「民族結婚」ではなく、私たちきょうだいはウリハッキョにも通えなかったため、トンポのネットワークから切り離されていた。オモニは仕事を転々とした。給食費が払えず、何度も忘れたふりをして教員に怒られた。なによりも社会から孤立することが漠たる不安としてあった。オモニの仕事仲間や友だち、商売上の付き合いが唯一の細いつなぎ目であった。
その中で叩きこまれる価値観に「自己責任」というものがある。能力がないから、女だから、朝鮮人だから貧乏に落ちぶれたんだと思っていた。社会にある差別を当たり前と思っていたのである。朝鮮人はむかし、出稼ぎに来たから肩身が狭いんだ、と。「自然」とされている価値観や支配的な考え方を問うことで社会の不当性と向き合い、解きほぐすことができるのは民族もジェンダーも同じである。
女性や子どもたちの苦悩、貧困、障害者や高齢者などのケアを必要とする人々の状況を無視して語られる在日朝鮮人の地位向上はまやかしの「解放」であると私は思う。(李杏理 一橋大学大学院博士課程/在日朝鮮人史研究)
●月刊イオ2016年1月号に掲載
illustration_宋明樺
わたしがねむりにつくころ、はたはたとふぁんでーしょんをたたきはじめるおもに。かがみごしに「どっかでかけるの?」ときくと「おけしょうのれんしゅうしてるんだよ」という。よなかにめがさめるとべっどはひろびろとしていた。
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「じぇんだーとかいうひとはおんなとかおとことかいうことにこだわってる」というたぐいのことばをよくみみにする。こういうはんのうには「?」がうかぶ。じぇんだーとは、しゃかいてきに(ひとびとのかちかんやぶんか、ほうせいどによって)つくられたせいべつやせいやくわり、そしてじぶんやたしゃのせいべつについてのいしきのことだ。「おとこならおとこらしくしなさい」「おんならしいふるまい」といったかんがえかたがしゃかいてきにつくられていることをとくかぎだ。せいべつによってせいやくやあっぱくをうけるげんじつをみつめ、おんなおとこの「しぜんな」ちがいにもとづき、あたりまえとされてきた「こだわり」からときはなたれるためにこそじぇんだーということばをつかうのだ。
ただしせいさべつは、たんにこじんのかんがえかたやうけとめかたのもんだいではない。ひとのせいしににもかかわるもんだいだ。
じょせいやせいてきしょうすうしゃへのぼうりょくは、せいさべつのろこつなひょうげんであるが、ほうせいどやせいかつじょうたいにあらわれるさべつもある。かじ・いくじ・かいごなどのけあ(ケア)ろうどうは じょせいがになうべきだというしゃかいのしくみやひとびとのかちかんによって、じょせいにはしゅうろうのきかいがかぎられている。にほんのじょせいろうどうじんこうのうち53.8%がひせいきこようであり、かのじょたちのねんしゅうはへいきん172まんえんである(2010ねんどせいふとうけい)。さらにじっかのおややこんいんぱーとなーのいないぼしかていのばあい、そのしゅうにゅうがせたいしゅうにゅうとなり、そのなかからこどもをやしなわねばならない。
じょせいであることにくわえ、ざいにちちょうせんじんやがいこくせきであるゆえのさべつや、ちゅうこうそつ(ちゅうがく、こうこうそつぎょう)しゃ・かくしゅがっこうなどへのがくれきさべつがおりかさなれば、いっそういきていくのがこんなんとなる。
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すいどうだいがはらえずにわがやがだんすいされたとき、おもにはやくしょにいって「うちはちいさいこどももいるのに、しんだらどうしてくれるんだよ!」とこえをあげた。それからすいどうはとまらなくなった。うちはぼしかていでしゅうにゅうもすくなかったが、おもにはせいめいりょくにあふれ、おんなともだちとのわらいにあふれていた。
りょうしんはいわゆる「みんぞくけっこん」ではなく、わたしたちきょうだいはうりはっきょにもかよえなかったため、どうほうのねっとわーくからきりはなされていた。おもにはしごとをてんてんとした。きゅうしょくひがはらえず、なんどもわすれたふりをしてきょういんにおこられた。なによりもしゃかいからこりつすることがばくたるふあんとしてあった。おもにのしごとなかまやともだち、しょうばいじょうのつきあいがゆいいつのほそいつなぎめであった。
そのなかでたたきこまれるかちかんに「じこせきにん」というものがある。のうりょくがないから、おんなだから、ちょうせんじんだからびんぼうにおちぶれたんだとおもっていた。しゃかいにあるさべつをあたりまえとおもっていたのである。ちょうせんじんはむかし、でかせぎにきたからかたみがせまいんだ、と。「しぜん」とされているかちかんやしはいてきなかんがえかたをとうことでしゃかいのふとうせいとむきあい、ときほぐすことができるのはみんぞくもじぇんだーもおなじである。
じょせいやこどもたちのくのう、ひんこん、しょうがいしゃやこうれいしゃなどのけあをひつようとするひとびとのじょうきょうをむししてかたられるざいにちちょうせんじんのちいこうじょうはまやかしの「かいほう」であるとわたしはおもう。(りへんり ひとつばしだいがくだいがくいんはかせかてい/ざいにちちょうせんじんしけんきゅう)
●げっかんいお2016ねん1がつごうにけいさい
【いらすとにこめたいみ】めのまえにあるもののられつと、じゅんじょをつけないといけないいまのげんじつ。
illustration_そん・みょんふぁ