知人に、20代はじめに長男に嫁ぎ、義理の両親と同居していた人がいます。何人ものシヌイ(夫の姉妹)がいて、お正月やお盆にはチェサ(祭祀)の準備だけでなくシヌイの家族たちの寝食の世話もしなければなりません。シヌイたちはそれを「長男の嫁の仕事」だから「当たり前」のことだと言い、お礼も労いの言葉もないようです。シヌイたちは誰も長男に嫁いでいません。
人は、優位な立場にいると弱い立場にいる人のことが見えにくくなるのですね。女性同士でも、立場が少し違えばもう相手の苦労がわからないのです。
ところで、ヒトの性は受精後8周目までは未分化で、このあと染色体、外性器、生殖器の三つのレベルで男女に分かれていくのだそうです。染色体がXXだと女性で、XYだと男性。外性器は外から見える性器の違いで、生殖器は体の中の機能です。この三つのレベルが同じ性で一致しない場合があります。例えば染色体上は男で外性器では女、というように(インターセックス)。また、これらが一致していても、その性別を心が受け入れられない場合(トランスジェンダー)などもありますね。男と女の区別が語られる時、「生物学的に絶対的なものだ」と言う人がいますが、そうとばかり言えないようです。いずれにしても、性別とその役割は、第三者が「当たり前だから」と押しつけるものではないのです。
私たちチョソンサラム(朝鮮人)は、日本人として生きるよう日本社会から強いられてきました。私たちの中の朝鮮性は外からは見えず、ない存在のように扱われます。私たちがここにいるに至る歴史を伝え、制度の不当について話しても、聞く耳を持たれなかったり、記号化され意識から排除されたりします。心ない差別発言を浴びることも少なくありません。マジョリティ側は「違う存在が同じ地平で生きている」ことを認めたくないのでしょう。そして優位な立場にいる彼らは、認められない側の痛みを知ろうとはしません。
しかし、そんな経験をしてきた私たちが、いざ多数派や優位な立場に立った時、どうするでしょうか? 少数派や、弱い立場に置かれてしまった人たちのことを、今度は「当たり前」のように押さえつける側に回ってしまうのでしょうか? 私たちは押さえつけられる痛みを肌で感じてきたからこそ、他のどの局面であっても相手の痛みをも感じ取ろうとすることができるのではないでしょうか?
「女」だから、「男」だから、「長男」だから、「長男の嫁」だから…。もしこれを「当たり前」のことと思っていたら、こうした性別や役割を記号化するマジョリティ目線のジェンダーを考え直してみませんか? 変わりつつある社会の中で自分や相手を見つめながら。(柳裕子 デザイナー)
参考図書
平凡社 中学生の質問箱「生まれてくるってどんなこと?」川松泰美著
編集協力・挿絵・DTP: 柳裕子
●月刊イオ2016年2月号に掲載
【イラストに込めた意味】白、黒だけではなく、