学生たちは小説を読んだり、映画を観たりする時、登場人物の言動に複数の解釈の可能性を想像する。こういう習慣を身につけておけば現実の社会における理解の幅も豊かになり、多様性を持つことができるはずだ。

 私は教員として「読む事」と「生きる事」を結びつけていくことが大切だと思っている。ここ最近では学生が卒業論文を書くうえでジェンダーの視点はいつも重要な論点にある。学生たちは作品に内在するジェンダーバイアスに気付こうと努力し始め、いったい女性とは何なのかという問いと真剣に向き合っている。

 私のゼミで学ぶ男子学生が、論文発表の場で、「なぜあえて女性像を研究しようとするのか?」という質問を受けたことがあった。それに対し、かれは「僕が生きてきた中で、知らないうちに加害者になっていたかもしれないからです」と答えた。私はハッとしてしまった。まさかそんなことを考えていたなんて。しかし、その質問をした教師は「君はそんな子ではないよ。最近ジェンダーやらなんやら流行っているからでしょ」と軽く言いのけてしまったのだ。

 「ジェンダー」という言葉を使うだけで、何もしないにも関わらず鼻で笑う人がいる。そういう反応を受け続けて、無力化されるかもしれない学生を思うと本当に心が痛む。私は「ジェンダー」が軽蔑を含む言い方で揶揄される度に、それ自体が性差別の問題を無視し、性差別に加担しているのではないかと思う。

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 何年か前、大学内で学生たちが自らジェンダーアンケートを実施した。多くの女性が肉体の特徴により社会的に評価されるという意識を内面化していた。「美しくてこそ女性の幸福」を実現することができるという考え方、これは男性中心社会で女性の自立性を失う一つの要因になっている。現在、摂食障害の90%は女性が占め、その背景にダイエット文化があるのも事実だ。大学の中にも予備軍はいるだろうし、気づいてあげられていない学生がいるかもしれない。

 私は、大学教育において一番大切なことは、何があっても変わることのない価値を求めることだと思っている。その価値の追求が、生きる目的であったり、生きる力であったりする。しかし多くの女子学生たちは20歳から10年以内に結婚し、その結婚が人生のすべてを決定すると信じている。結婚は彼女たちの「夢」であると同時に、「夢の捨て場所」かもしれない。結婚は食べていくための手段ではないはずだ。生きていく手段は女性自身も持っているし、男性からみれば結婚が「性的なお手伝いを雇うこと」ではない。

 女性も自分の一度しかない人生を、他者や偶然に頼らず、しっかりと主体的な意志や判断力や責任感を持って作っていかなければならないはずだ。結婚しても変わらない価値観を持ち、社会の中で確かな役割を果たす人間になってもらいたい。自分の人生をどのように組み立てていくか、そのためには何を学ぶべきなのか―。当たり前かもしれないが、学生たちにいつもそういうメッセージを送っている。(金真美 朝鮮大学校助教/朝鮮児童文学専攻)

 

●月刊イオ2016年5月号に掲載

【イラストに込めた意味】自ら学び、自らの意志で、自らの人生を組み立てる。
illustration_宋明樺