子どもの頃、私の3人の姉は皆、ピアノを習っていた。姉たちはいつも口を揃えて「練習がだるい」「レッスンに行きたくない」と愚痴をこぼしていた。4人姉弟の中で唯一、私だけがピアノを習っていなかった。でもピアノを弾くことが好きだったのは唯一、私だけであった。暇さえあればピアノを弾き、音楽の世界に入り込んだ。ピアノを習っている姉たちが羨ましかった私は、初級部4年の頃、自分もピアノを習いたいと意を決して話した。すると父はこう言い放った。「男なら空手を習いなさい」―。
「男は男らしく」。家庭でも、学校でも、この規範から外れているものは幼い頃から精神的な攻撃を受ける。私自身、「女っぽい」「男らしくなくてキモイ」「おかま」などの差別的発言を受け続けてきた。言った本人たちは、その一言がどれだけ他人の心を傷つけているかなど知る由もないだろう。「お前のために言っている」そう思っているかもしれない。私はいつしか「男らしく」なければ生きていけない、「男らしく」ない自分はダメなんだと感じるようになった。これ以上傷つきたくないという自己防衛本能からか、もはやそれが自分自身の望みであるかのように錯覚し始める。攻撃されるごとに、もっと「男らしく」なろうと努力する…。
私はふと思う。「今の自分は自分らしいのか?」「自分らしさって何だったのか?」。そして気づく。自分らしさを確立する前に、「男らしさ」を強要されていたことに。求められる「男らしさ」に添えない自分という消極的な自己規定をしてきたことに。「男らしさ」のステレオタイプを内面化し、自分も目指していたことに気づいた時、それまで以上に自分自身に対する嫌悪感を覚えた。
男は、クラスをまとめ上げなきゃいけないし、デートに行ったらお金を払わなきゃいけないし、スポーツができなきゃいけない。女と子どもを養わなきゃいけないし、重要なことを取り決め、責任を取らなきゃいけない。だから男は、家事も育児もしなくていい。こうして、学校で、家庭で、職場で、「女の子/女子/女性」が作られると同時に「男の子/男子/男性」が作られる。個々人のアイデンティティは無視され、決めつけられ、規範から外れれば排除される。すなわち、人間として生きられなくなる。
男性優位の社会は、男性に、過剰なまでに「男らしさ」を押し付けている。内閣府の公表によると、日本においての自殺者は男性が69.4%(H27年度)で実に女性の2倍以上に上るが、これが男性に対する社会的な重圧と無関係だとは、私は思えない。
私が救われたのは、「男らしさ」という作り上げられた規準からではなく、「自分らしさ」を見てくれる人との出会いであった。「男らしく、女らしく」ではなく「人間らしく、自分らしく」生きることを目指すべきではないだろうか。性差別をなくすことは、女性でも男性でもどちらでもない性でも、誰もが生きやすい社会を作るということだと思う。私自身は、男性として生まれ、不本意に支配者としての地位を確立し生きている自覚を持って、男性としての責任を果たしていこうと思う。(金成樹 朝鮮大学校助教/朝鮮語文法論専攻)
●月刊イオ2016年6月号に掲載
【イラストに込めた意味】男らしさのみち、女らしさの道が入り混じった中を掻き分けて、
illustration_宋明樺