最初に自分の子どもがセクシャルマイノリティかもしれないと感じたときのことを今でも忘れない。きっと、色んな人の痛みを理解できる優しい人に育ってくれるに違いないと、ワクワクした瞬間だった。男の子の体で生まれて9歳になる娘は、いま、女の子として生活している。話を聞くと娘は4歳の頃には女の子だと自認していたようだ。
男の子がピンク色を好むことは気持ちが悪いし、体操の時間は小さな子でも男女分かれて参加しなくてはならない。女の子はおしとやかにおとなしくするのが「ふつう」だ。そんなことは昔からいつも当たり前のことだった。私たち家族はこどもを守るために、「当たり前の社会になじむ」ことを無意識のうちについつい先走って幼かった娘に強要していたと思う。
しかし、大人たちが本質のところをなんとなくごまかしているうちに、猛スピードで成長する娘は自分の言葉ではっきりと自分のジェンダーを表現し、要求するようになった。そして男の子の体の自分を拒み、望む姿ではない自分自身のことを両親もきっと好きでないに違いないという言葉をこぼすようになっていた。服装を変えたり、髪を伸ばしたり、とても小さなことですら変えてあげられない。私は本腰を入れて娘のジェンダーと真剣に向き合わなければならないと感じた。
早急に同じ境遇の人たちとの出会いを探した。ひとりぼっちじゃないことを娘に知ってほしかったという理由が一番大きいが、私自身が日常や言動を振り返らなくてはならないと感じていた。あまりにきっぱりと男女二色に別れた社会で生きてきたからだ。それから娘には、「心」と「体」と「好き」には色んなかたちがあって世界中にそれがたくさん溢れているということ。女の子同士でも男の子同士でも結婚していいし、あなたみたいな人をトランスジェンダーと呼んだりするよ、と説明した。
少し前に、制服を変えたいという要求をきっかけに学校でカミングアウトした。理解ある大人たちに支えられながら、友人にも拍手をもらって女子制服に変更することができた。その姿に私たち家族は感心したし、カミングアウトが成功したのは周りの大人たちが積極的に学び、理解を深めようと努力し、最善を尽くした結果だった。しかし同時に、多くの事前準備を踏まえて、みんなで「せーの! よっこらしょ」と、カミングアウトしなければならない現実に、誰もが自分らしく生きられる社会は程遠いと再確認した瞬間でもあった。
割り当てられた性別の枠内での振る舞いを拒み、望む性で生きるためのジェンダー・アイデンティティを形成するには、あとどれだけの壁を一緒に乗り越えていくのだろうかと心配も絶えない。それでも、毎日前を向いて自分らしく生きようとする娘の成長が眩しい。そして、もしかしたら娘と関わりを持った大人や子どもたちが、無意識のうちに誰かを傷つけることを回避できるかもしれないという期待をいつも抱いている。(李史織●会社員)
●月刊イオ2017年6月号に掲載
illustration_宋明樺
さいしょに じぶんのこどもが せくしゃるまいのりてぃかもしれないと かんじたときのことを いまでもわすれない。きっと、いろんなひとの いたみを りかいできる やさしいひとに そだってくれるにちがいないと、わくわくしたしゅんかんだった。おとこのこのからだでうまれて 9さいになるむすめは、いま、おんなのことして せいかつしている。はなしをきくと むすめは4さいのころには おんなのこだと じにんしていたようだ。
おとこのこが ぴんくいろを このむことは きもちがわるいし、たいそうのじかんは ちいさなこでも だんじょわかれて さんかしなくてはならない。おんなのこは おしとやかにおとなしくするのが「ふつう」だ。そんなことは むかしからいつも あたりまえのことだった。わたしたちかぞくは こどもをまもるために、「あたりまえのしゃかいになじむ」ことを むいしきのうちに ついついさきばしって おさなかったむすめに きょうようしていたとおもう。
しかし、おとなたちが ほんしつのところを なんとなくごまかしているうちに、もうすぴーどでせいちょうするむすめは じぶんのことばではっきりと じぶんのじぇんだーをひょうげんし、ようきゅうするようになった。そして おとこのこのからだのじぶんをこばみ、のぞむすがたではないじぶんじしんのことを りょうしんもきっと すきでないにちがいない ということばをこぼすようになっていた。ふくそうをかえたり、かみをのばしたり、とてもちいさなことすら かえてあげられない。わたしは ほんごしをいれて むすめのじぇんだーと しんけんにむきあわなければならないとかんじた。
そうきゅうに おなじきょうぐうのひとたちとの であいをさがした。ひとりぼっちじゃないことを むすめにしってほしかったというりゆうが いちばんおおきいが、わたしじしんが にちじょうや げんどうを ふりかえらなくてはならないと かんじていた。あまりにきっぱりと だんじょにしょくに わかれたしゃかいで いきてきたからだ。それからむすめには、「こころ」と「からだ」と「すき」には いろんなかたちがあって せかいじゅうに それがたくさんあふれているということ。おんなのこどうしでも おとこのこどうしでも けっこんしていいし、あなたみたいなひとを とらんすじぇんだーと よんだりするよ、と せつめいした。
すこしまえに、せいふくをかえたいという ようきゅうをきっかけに がっこうで かみんぐあうとした。りかいある おとなたちに ささえられながら、ゆうじんにも はくしゅをもらって じょしせいふくに へんこうすることができた。そのすがたに わたしたちかぞくは かんしんしたし、かみんぐあうとが せいこうしたのは まわりのおとなたちが せっきょくてきにまなび、りかいをふかめようとどりょくし、さいぜんをつくしたけっかだった。しかしどうじに、おおくのじぜんじゅんびをふまえて、みんなで「せーの! よっこらしょ」と、かみんぐあうとしなければならない げんじつに、だれもがじぶんらしくいきられるしゃかいは ほどとおいと さいにんしきした しゅんかんでもあった。
わりあてられた せいべつのわくないでの ふるまいをこばみ、のぞむせいでいきるための じぇんだー・あいでんてぃてぃを けいせいするには、あとどれだけのかべを いっしょにのりこえていくのだろうと しんぱいもたえない。それでも、まいにちまえをむいて じぶんらしくいきようとする むすめのせいちょうがまぶしい。そして、もしかしたら むすめとかかわりをもった おとなやこどもたちが、むいしきのうちに だれかをきずつけることを かいひできるかもしれないというきたいを いつもいだいている。(り・しおり●かいしゃいん)
●げっかんいお2017ねん6がつごうに けいさい
いらすとれーしょん_そんみょんふぁ