** ふたつめは かんじ なし **
性差別撤廃部会では去る11月16日、今年の連続講座「だれいき!マイノリティ女性からみる日本社会~アイヌ、琉球・沖縄、部落、在日朝鮮人~」の第4回(最終回)を行いました。今回は瀬戸徐映里奈さんをお招きして、大変貴重なお話をうかがいました。
以下、当日の簡単な報告と参加者の感想を共有させていただきます。ぜひご一読いただければ幸いです!
【報告】
11月16日、瀬戸徐映里奈さんをお招きし、「だれいき!連続講座マイノリティ女性からみる日本社会~アイヌ、琉球・沖縄、部落、在日朝鮮人~」第4回講座を飯田橋ボランティアセンターにて開催し、28名が参加しました。
まず幼少期からの自分の個人史について語られたあと、在日朝鮮人運動に出会ってからの変化、そして現在着手されている研究について紹介され、生活や研究で接するなかで触れた被差別部落が生み出す結びつきについてご自身の考えを述べられました。
幼少期は、社会からの差別的な視線を避けるために両親の出自について隠すことを求められてきました。それを大きく意識させられた端初は、一般地域の校区にある小学校へ入学したことでした。日本語が下手な外国人で、「チョーセン人」と眼差しを向けられる韓国人の母親に対する差別を感じながら育ちました。中学進学後は、クラスメイトの言動などから部落に対する偏見も少しずつ実感するようになり、二重の差別を感じるようになりました。
出生時の日韓の法制度のため、生まれたときから日本国籍だった瀬戸徐さん。日本人として自分を規定するようになりますが、周囲との違いも感じていました。一般的に外国人と日本人との間に生まれた子どもはハーフと呼ばれるが、ハーフにまつわるイメージは、欧米人との間に生まれた人のイメージが強い。中学のときに、ハーフについて語る友人に自分の母が韓国人であることをいうと、アジア人との間に生まれた人はハーフには入らないよ、と言われてしまいました。このような体験もあったためか、自身をハーフというのではなく、韓国人の母をもつ日本人だと考えるようになりました。しかし、大学生の時に民族団体と出会い、ダブルとしての自分を肯定されたことから、「日本人」ではないアイデンティティを考えてもいいのだと考えられるようになりました。これまで自分が想定していた「日本人」と社会が想定する「日本人」にズレを感じていたため、ダブルと肯定してもらったことで、これまで心のなかでとどめていた朝鮮との繋がりを考え直す機会となりました。
同世代の在日朝鮮人と出会い、歴史や制度を学んだことから、自身も朝鮮民族の一員なのだと考えるようになりました。しかし、在日朝鮮人とは、日本の植民地支配に起因して日本に住まざるを得なくなってしまった朝鮮人(いわゆるオールドカマー)を指します。自分がニューカマーの“韓国人”であることを在日朝鮮人運動の中でどう位置づけるのかという立ち位置の思索をすることになりました。
瀬戸徐さんの母が渡日した80年代の韓国は、25歳までに結婚しない女性はいき遅れとされるような、強い結婚適齢期規範がありました。また、当時は海外渡航が自由ではなく、結婚が女性たちにとって数少ない出国手段であった一方で、日本ではバブル経済のなか、女性たちが高学歴化し、都市へ流出するため、農村には結婚できない男性が増加しました。こうした状況を解決するために、韓国を含むアジアの国から仲介業者を通してアジア人女性が農村男性と結婚するケースが増えていました。また、当時はキーセン観光が流行しており、大企業だけではなく中小企業などの慰安旅行で、多くの日本人男性が韓国にでかけていました。
瀬戸徐さんの両親の出会いは、このような手段によってもたらされたものではありません。しかし、解放後にも継続する植民地主義が構築する日韓の不平等な関係が、自身の出生にも大きく関連していることについて述べられました。
さらに、80年代にはベトナム戦争の終結に起因して、ベトナム難民が日本に渡日した時代でもあった。地元に多く暮らすベトナム人たちが、ベトナム戦争に起因して渡日してきたベトナム人であること、ベトナム戦争に韓国も軍を派兵していた事実を知りました。そのことをきっかけに、朝鮮にルーツのあるものとしてのその責任をどのように引き受けるのかを思案するべく在日ベトナム人研究に着手するようになります。
調査をするなかで、在日ベトナム人の集住化が進む、ある被差別部落では、かつて部落民が集っていた会館がベトナム人に学びの場を提供する場所となっていることを知ります。
部落とその他のマイノリティの出会いは、その時代の社会的経済的背景によってもたらされたものであり、決してすべてがポジティブなものではありません。しかし、かつての部落民が蓄積してきた反差別のための取り組みが、いま新たな繋がりを生み出し、活動の場所になっていること、被差別部落が異なる人びとをつなげる役割を果たしていることを述べられました。
瀬戸徐さんのように様々な背景を持って生きていく民族マイノリティはこれからますます増えていくでしょう。その中で一般化せず一人一人のルーツに寄り添っていくコミュニティー、運動体が必要であると改めて考えさせられた連続講座の最終回となりました。
【参加者の感想】
◯複層的なマイノリティの「生」を一人の人間の半生を通して知ることができた。「在日朝鮮人」の定義の中の「植民地政策」という項目は1910-1945にとどまるものではなく、そのレガシー、ポスト~の時代にも「植民地主義」が大きな影を落としているという事実を「メインストリーム」の在日朝鮮人は理解しなければいけないと改めて思った。「在日朝鮮人」の再定義が迫られているのではないかと思う。
◯本当に聞けてよかったです。人生で、生きていく中で、聞かないといけない話だったと思いました。
◯差別されているものが、さらに差別される弱者を作って「自分がましだ」ということで存在意義をなんとか持とうとすること、差別が差別を生むことを父母の生きざまと自身の生きざまで経験してきた講師の話に圧倒されました。
◯被差別部落、朝鮮人と、そして今の研究の在日ベトナム人に着目した理由など、それぞれのつながりと、単純には話すことのできないお話を丁寧に聞くことができて、とても貴重な機会でした。瀬戸徐さんの生い立ちの中からの経験、そして研究への取り組む姿勢を聞き、自分の視野や考え方などあらためて考え直させられました。丁寧で、かつ様々な要素が含まれた2時間、たいへん大切な時間でした。
◯日本の植民地戦争、侵略戦争からの朝鮮の分断、日本の加害性について、これまで何の向き合いもしてこなかった日本人、日本政府について考えさせられました。私の母は統合失調症で結婚も遅かったため、母が受けてきた心の痛みについて感情移入して聞きました。母との関わり方について改めて考えるきっかけにもなりました。
◯個人史をときおこすと、それがそのまま被差別部落と在日朝鮮人の歴史になる、日本社会への批判的視点になるということを示した、素晴らしいお話でした。
せいさべつてっぱいぶかいでは さる 11がつ 16にち、ことしの れんぞくこうざ 「だれいき!まいのりてぃ じょせいから みる にほんしゃかい~あいぬ、りゅうきゅう・おきなわ、ぶらく、ざいにちちょうせんじん~」の だい4かい(さいしゅうかい)を おこないました。こんかいは せとそえりなさんを おまねきして、たいへん きちょうな おはなしを うかがいました。
いか、とうじつの かんたんな ほうこくと さんかしゃの かんそうを きょうゆう させて いただきます。ぜひ ごいちどく いただければ さいわいです!
【ほうこく】
11がつ16にち、せとそえりなさんを おまねきし、「だれいき!れんぞくこうざまいのりてぃじょせいからみるにほんしゃかい~あいぬ、りゅうきゅう・おきなわ、ぶらく、ざいにちちょうせんじん~」だいよんかい こうざを いいだばしぼらんてぃあせんたーにて かいさいし、28めいが さんかしました。
まず ようしょうきからの じぶんの こじんしに ついて かたった あと、ざいにちちょうせんじんうんどうに であってからの へんか、そして げんざい ちゃくしゅされている けんきゅうに ついて しょうかいされ、せいかつや けんきゅうで せっするなかで ふれた ひさべつぶらくが うみだす むすびつきに ついて ごじしんの かんがえを のべられました。
ようしょうきは、しゃかいからの さべつてきな しせんを さけるために りょうしんのしゅつじに ついて かくすことを もとめられてきました。それを おおきく いしきさせられた たんしょは、いっぱんちいきの こうくに ある しょうがっこうへ にゅうがく したことで あった。にほんごが へたな がいこくじんで、「ちょーせんじん」と まなざしを むけられる かんこくじんの ははおやに たいする さべつを かんじながら そだちました。ちゅうがく しんがくごは くらすめいとの げんどうなどから ぶらくに たいする へんけんも すこしずつ じっかんするように なり、にじゅうの さべつを かんじるように なりました。
しゅっせいじの にっかんの ほうせいどの ため、うまれたときから にほんこくせきだった せとそさん。にほんじんとして じぶんを きていするように なりますが、しゅういとの ちがいも かんじていました。いっぱんてきに がいこくじんと にほんじんとの あいだに うまれた こどもは はーふと よばれるが、はーふに まつわる いめーじは おうべいじんとの あいだに うまれた ひとの いめーじが つよい。ちゅうがくのときに、はーふについて かたる ゆうじんに じぶんの ははが かんこくじんで あることを いうと、あじあじんとの あいだに うまれた ひとは はーふには はいらないよ、といわれてしまいました。このような たいけんも あった ためか、じしんを はーふと いうのではなく、かんこくじんの ははを もつ にほんじんだと かんがえる ようになりました。しかし、だいがくせいの ときに みんぞくだんたいと であい、だぶるとしての じぶんを こうていされた ことから 「にほんじん」ではない あいでんてぃてぃを かんがえても いいのだと かんがえられる ようになりました。これまで じぶんが そうていしていた 「にほんじん」と しゃかいが そうていする にほんじんに ずれを かんじていたため、だぶると こうていして もらったことで、これまで こころのなかで とどめていた ちょうせんとの つながりを かんがえなおす きかいと なりました。
どうせだいの ざいにちちょうせんじんと であい、れきしや せいどを まなんだことから、じしんも ちょうせんみんぞくの いちいんなのだと かんがえる ように なりました。しかし ざいにちちょうせんじんとは にほんの しょくみんちしはいに きいんして にほんに すまざるを えなくなってしまった ちょうせんじん(いわゆる おーるどかまー)をさします。じぶんが にゅーかまーの “かんこくじん”で あることを ざいにちちょうせんじんうんどうのなかで どう いちづけるのかと いう たちいちの しさくを することになりました。
せとそさんの ははが とにちした 80ねんだいの かんこくは、25さいまでに けっこんしない じょせいは いきおくれと されるような、つよい けっこんてきれいききはんが ありました。また、とうじは かいがいとこうが じゆうではなく、けっこんが じょせいたちに とって かずすくない しゅっこくしゅだんで あった いっぽうで、にほんでは ばぶるけいざいの なか じょせいたちが こうがくれきかし、としへ りゅうしゅつ するため、のうそんには けっこん できない だんせいが ぞうか しました。こうした じょうきょうを かいけつ するために、かんこくを ふくむ あじあの くにから ちゅうかいぎょうしゃを とおして あじあじん じょせいが のうそん だんせいと けっこんする けーすが ふえていました。また、とうじは きーせんかんこうが りゅうこうしており、だいきぎょうだけ ではなく ちゅうしょうきぎょうなどの いあんりょこうで、おおくの にほんじんだんせいが かんこくに でかけていました。
せとそさんの りょうしんの であいは、このような しゅだんに よって もたらされたものでは ありません。しかし、かいほうごにも けいぞくする しょくみんちしゅぎが こうちくする にっかんの ふびょうどうな かんけいが、じしんの しゅっせいにも おおきく かんれん していることに ついて のべられました。
さらに 80ねんだいには べとなむせんそうの しゅうけつに きいんして、べとなむなんみんがにほんに とにちした じだいでも ありました。じもとに おおく くらす べとなむじんたちが、べとなむせんそうに きいんして とにちしてきた べとなむじんで あること、べとなむせんそうに かんこくも ぐんを はへい していた じじつをしった。このことを きっかけに、ちょうせんに るーつの ある ものとして どのように せきにんを ひきうけるのかを しあんするべく ざいにち べとなむじん けんきゅうに ちゃくしゅするように なります。
ちょうさを するなかで、ざいにち べとなむじんの しゅうじゅうかが すすむ、ある ひさべつぶらくでは、かつて ぶらくみんが つどっていた かいかんが べとなむじんに まなびの ばを ていきょうする ばしょと なっていることを しります。
ぶらくと そのたの まいのりてぃの であいは、その じだいの しゃかいてき けいざいてき はいけいに よって もたらされた ものであり、けして すべてが ぽじてぃぶな ものでは ありません。しかし、かつての ぶらくみんが ちくせき してきた はんさべつの ための とりくみが、いま あらたな つながりを うみだし、かつどうの ばしょに なっていること、ひさべつぶらくが ことなる ひとびとを つなげる やくわりを はたしている ことをのべられました。
せとそさんの ように さまざまな はいけいを もって いきていく みんぞく まいのりてぃは これから ますます ふえていくでしょう。そのなかで いっぱんかせず ひとりひとりの るーつに よりそっていく こみゅにてぃー、うんどうたいが ひつようで あると あらためて かんがえさせられた れんぞくこうざの さいしゅうかいと なりました。
【さんかしゃの かんそう】
◯ふくそうてきな まいのりてぃの 「せい」を ひとりの にんげんの はんせいを とおして しることができた。「ざいにちちょうせんじん」の ていぎのなかの「しょくみんちせいさく」という こうもくは1910-1945にとどまるものではなく、そのれがしー、ぽすと~の じだいにも「しょくみんちしゅぎ」が おおきな かげを おとしているという じじつを 「めいんすとりーむ」の ざいにちちょうせんじんは りかいしなければいけないと あらためて おもった。「ざいにちちょうせんじん」の さいていぎが せまられているのではないかと おもう。
◯ほんとうに きけて よかったです。じんせいで、いきていくなかで、きかないといけない はなしだったと おもいました。
◯さべつされているものが、さらに さべつされる じゃくしゃを つくって「じぶんがましだ」と いうことで そんざいいぎを なんとか もとうとすること、さべつが さべつを うむことを ふぼの いきざまと じしんの いきざまで けいけんしてきた こうしの はなしに あっとうされました。
◯ひさべつぶらく、ちょうせんじんと、そしていまの けんきゅうの ざいにちべとなむじんに ちゃくもくした りゆうなど、それぞれのつながりと、たんじゅんには はなすことの できない おはなしを ていねいに きくことができて、とてもきちょうな きかいでした。せとそさんの おいたちの なかからの けいけん、そしてけんきゅうへの とりくむしせいを きき、じぶんの しやや かんがえかたなど あらためて かんがえなおさせられました。ていねいで、かつさまざまな ようそが ふくまれた 2じかん、たいへん たいせつな じかんでした。
◯にほんの しょくみんちせんそう、しんりゃくせんそうからの ちょうせんの ぶんだん、にほんの かがいせいについて、これまでなんの むきあいも してこなかった にほんじん、にほんせいふに ついて かんがえさせられました。わたしの ははは とうごうしっちょうしょうで けっこんも おそかったため、ははが うけてきた こころの いたみについて かんじょういにゅうして ききました。ははとの かかわりかたについて あらためて かんがえる きっかけにも なりました。
◯こじんしを ときおこすと、それがそのまま ひさべつぶらくと ざいにちちょうせんじんの れきしになる、にほんしゃかいへの ひはんてきしてんに なるということを しめした、すばらしい おはなしでした。